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英仏百年戦争物語7:クレシーの戦い

1. 決戦のイングランド陣営

1346年8月26日、エドワード3世とエドワード黒太子の軍は、フランスはクレシーの郊外に展開し、フィリップ6世の率いるフランス軍と初めて対峙します。

イングランド軍の前衛は、エドワード黒太子の4500の右翼と、ノーサンプトン伯の4000余の左翼でした。そして、後衛中央に、エドワード3世が3000以上の兵力で陣を構えたとされています。
イングランド軍は合計およそ1万2千に達していたのですが、そのうち6千が弓兵で、他は騎士と槍兵で構成されていました。

また、陣形としては、黒太子とノーサンプトン伯の2隊が後衛を隠すように守っていたと言われますが、本などでは、エドワード3世が中央前面に出ていたとも言われていて、史料によって異なります。

エドワード3世は、弱冠16歳の若きエドワード黒太子を補佐するため、有能な家臣を数人、王太子につけています。

その中でも、戦術面を実質的にエドワード黒太子を補佐したのが、ジョン・チャンドスでした。彼は、当時珍しく、貴族の出身ではなかったのにも関わらず、エドワード3世配下の騎士として手勢を率いて、戦争に参加していました。ジョン・チャンドスは黒太子の親友かつ、戦場の経験を積んだ軍人として、若き黒太子をサポートしていました。

2. フランス軍の陣営

一方、フランス軍陣営は、名だたる諸侯が揃っていました。
フランス国内から、当時の家格では最高格の領主が参加していました。(ブロワ伯、アランソン伯、オーセール伯、サンセール伯、アラクール伯、フランドル伯、国外からは、ボヘミア王、マジョルカ王、モラヴィア侯、ロレーヌ公など)
その数は4万と、イングランド軍を圧倒する兵力で、戦場に展開していました。

両軍ともかなり高い比率で騎士が参加していたのですが、英仏間の一番の大きな違いは、イングランド軍は騎士が馬から下りて防衛線を築いていたことでした。
当時の騎士が戦場の主役だった時代にこの選択は、一見不可解なものだったのでは、と思われます。
一方フランス軍は、騎士は従来通り、馬に乗ったままその突進力で攻撃をかけるという方法で戦いに臨みました。

3. 決戦

そして、フランス軍のジェノバ傭兵が前進して、弓を射掛ける事で、戦闘が開始します。

このとき、イングランド軍に比べて矢の飛距離の短いジェノバ傭兵は、矢が届かないので前進したのですが、その間に次々に放つ矢が大きな犠牲を出して、ジェノバ傭兵部隊を撤退させたといわれています。
飛距離も発射間隔も、イングランド軍の弓兵は、スコットランド遠征の経験から、フランス軍に対して、圧倒的に有利な攻撃を繰り返しました。

※ただ、一部のイギリスの学者の説では、このとき雨が降っていたにも関わらず、ジェノバ傭兵が弓を引き絞ったまま待機していたので、一気に弦が悪くなってしまい、逆に弦をゆるめていたイングランド軍の弓兵は、本来の飛距離を出せたのだとも言われています。

そして、このジェノバ傭兵の撤退に憤ったフランス軍は、フィリップ6世の制止も聞かずに、隊形がバラバラのまま、イングランド軍に突撃を開始してしまいます。
イングランド軍の騎士は、面目を気にせずに、下馬して敵の攻撃を陣形を堅く守って撃退させ、弓兵は、ただひたすら敵軍に矢を射続けます。

フランス軍は、重厚な装備の騎士に、その騎士を乗せていた馬も厚い鎧を着せられていたので、速度としては、かなり遅いもので、突撃力に欠け、隊列も乱れていたので、効果的な攻撃をできませんでした。そして、フランス軍の騎士の多くは、絶えずに降ってくる矢に負傷して、戦場を離脱していくしかありませんでした。

4. フランス軍の崩壊

完全に大混乱に陥ったフランス軍に対して、イングランド軍は、乗馬した騎士に攻撃を開始させます。この攻撃が最後の決定打になり、フランスの撤退が始まりました。

フランス王フィリップ6世は、負傷しながらわずか60名の部下と供に逃げ、他の多くの諸侯が戦死しました。
主な戦死者は、アランソン公、ボヘミア王、フランドル伯、ロレーヌ公と名だたる貴族が多く、クレシーの地で命を落としました。

そして、この戦いから、歴史は大きな変化を迎えることになります。