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英仏百年戦争物語8:優勢のイングランド軍

1. クレシーの戦い後のイングランド軍の勢い

クレシーの戦いの後から、イングランドとフランスの立場に大きな変化が訪れてきます。

今まで大国フランスに立ち向かう小国イングランドの戦いという様相が強かったのですが、このクレシーの戦いと次のポワティエの戦いの時期が転換期となり、常勝軍率いるイングランドに対するフランス軍の戦いに変わっていくからです。

つまり、時勢がイングランドに傾き、それを知りつつも、その困難をフランスがどう乗り越えるか、という点が歴史の境目になります。

クレシーの戦いの後、イングランド軍は、港町カレーを1347年までかけて陥落させ、さらにアキテーヌでも、順調に諸都市を手に入れ、更にブルターニュでは、敵の総大将ブロワ伯シャルルをラ・ロシュ・デリアンの戦いで捕虜にして、フランスの各地をイングランド陣営の占領下にします。

2. ネヴィルズ・クロスの戦い

スコットランドでも、イングランド軍は決定的な勝利を収めます。

数知れない反乱で、デイビッド2世はベイリアルを完全に操り、ベイリアルも初期の戦闘の冴えが見られずに、スコットランド軍の前に後退を余儀なくされてしまっていました。
そして、1467年10月17日、ネヴィルズ・クロスの戦いで、8000のイングランド軍は、1万人のスコットランド人と死闘を繰り広げます。

さすがにスコットランド軍は、イングランド軍の弓の威力をすでに研究済みで、逆にスコットランド軍歩兵の絶え間ない猛攻の前にイングランド軍は幾度も混乱に陥るものの、その度に立て直します。
そして、ただひたすら防御に回ったにも関わらず、スコットランド軍が多くの武将を戦場で失い、ついに士気の低かったスコットランド民兵が逃げ出したのを契機に、スコットランド軍の攻撃は失敗に終わり、多くの死体を残して敗退します。
そして、スコットランド王を称して、イングランドに反抗し続けた総大将デイビッド2世は、ついにイングランド軍に捕縛され、勝敗がつきました。

このとき、イングランド軍の中でもベイリアルの利用価値はすでになくなっていて、彼は、形式的にもスコットランド領を持つ事になりますが、やがて引退して形式的な権限もイングランドに全て譲り渡し、イングランドからお金を貰いながら、隠居生活をしたといわれています。

エドワード・ベイリアルは、結婚していなかったため、子供もなく、静かにその生涯を閉じたといわれています。そして、彼の死と共にベイリアル家は断絶します。

3. 英仏で時代の転換期

さて、どちらにしろ、これでイングランドのエドワード3世は、大陸でも、北のスコットランドでも勝利を得て、イングランドの春を謳歌します。

その後、小競り合いが続くのですが、1350年頃には数年前から続いていた「黒死病」(ペスト)が更に流行して、人口が一気に減少してしまいます。

1350年8月26日、フランス王フィリップ6世は、この世を去ります。
これによって、ヴァロワ朝の初代から2代目ジャン2世の時代に変わります。

そのため、しばらくは小競り合いのみが続き、ようやく次の歴史の歯車が動き出すのは、1354年4月のアヴィニョンの英仏和平会談でした

英仏百年戦争物語7:クレシーの戦い

1. 決戦のイングランド陣営

1346年8月26日、エドワード3世とエドワード黒太子の軍は、フランスはクレシーの郊外に展開し、フィリップ6世の率いるフランス軍と初めて対峙します。

イングランド軍の前衛は、エドワード黒太子の4500の右翼と、ノーサンプトン伯の4000余の左翼でした。そして、後衛中央に、エドワード3世が3000以上の兵力で陣を構えたとされています。
イングランド軍は合計およそ1万2千に達していたのですが、そのうち6千が弓兵で、他は騎士と槍兵で構成されていました。

また、陣形としては、黒太子とノーサンプトン伯の2隊が後衛を隠すように守っていたと言われますが、本などでは、エドワード3世が中央前面に出ていたとも言われていて、史料によって異なります。

エドワード3世は、弱冠16歳の若きエドワード黒太子を補佐するため、有能な家臣を数人、王太子につけています。

その中でも、戦術面を実質的にエドワード黒太子を補佐したのが、ジョン・チャンドスでした。彼は、当時珍しく、貴族の出身ではなかったのにも関わらず、エドワード3世配下の騎士として手勢を率いて、戦争に参加していました。ジョン・チャンドスは黒太子の親友かつ、戦場の経験を積んだ軍人として、若き黒太子をサポートしていました。

2. フランス軍の陣営

一方、フランス軍陣営は、名だたる諸侯が揃っていました。
フランス国内から、当時の家格では最高格の領主が参加していました。(ブロワ伯、アランソン伯、オーセール伯、サンセール伯、アラクール伯、フランドル伯、国外からは、ボヘミア王、マジョルカ王、モラヴィア侯、ロレーヌ公など)
その数は4万と、イングランド軍を圧倒する兵力で、戦場に展開していました。

両軍ともかなり高い比率で騎士が参加していたのですが、英仏間の一番の大きな違いは、イングランド軍は騎士が馬から下りて防衛線を築いていたことでした。
当時の騎士が戦場の主役だった時代にこの選択は、一見不可解なものだったのでは、と思われます。
一方フランス軍は、騎士は従来通り、馬に乗ったままその突進力で攻撃をかけるという方法で戦いに臨みました。

3. 決戦

そして、フランス軍のジェノバ傭兵が前進して、弓を射掛ける事で、戦闘が開始します。

このとき、イングランド軍に比べて矢の飛距離の短いジェノバ傭兵は、矢が届かないので前進したのですが、その間に次々に放つ矢が大きな犠牲を出して、ジェノバ傭兵部隊を撤退させたといわれています。
飛距離も発射間隔も、イングランド軍の弓兵は、スコットランド遠征の経験から、フランス軍に対して、圧倒的に有利な攻撃を繰り返しました。

※ただ、一部のイギリスの学者の説では、このとき雨が降っていたにも関わらず、ジェノバ傭兵が弓を引き絞ったまま待機していたので、一気に弦が悪くなってしまい、逆に弦をゆるめていたイングランド軍の弓兵は、本来の飛距離を出せたのだとも言われています。

そして、このジェノバ傭兵の撤退に憤ったフランス軍は、フィリップ6世の制止も聞かずに、隊形がバラバラのまま、イングランド軍に突撃を開始してしまいます。
イングランド軍の騎士は、面目を気にせずに、下馬して敵の攻撃を陣形を堅く守って撃退させ、弓兵は、ただひたすら敵軍に矢を射続けます。

フランス軍は、重厚な装備の騎士に、その騎士を乗せていた馬も厚い鎧を着せられていたので、速度としては、かなり遅いもので、突撃力に欠け、隊列も乱れていたので、効果的な攻撃をできませんでした。そして、フランス軍の騎士の多くは、絶えずに降ってくる矢に負傷して、戦場を離脱していくしかありませんでした。

4. フランス軍の崩壊

完全に大混乱に陥ったフランス軍に対して、イングランド軍は、乗馬した騎士に攻撃を開始させます。この攻撃が最後の決定打になり、フランスの撤退が始まりました。

フランス王フィリップ6世は、負傷しながらわずか60名の部下と供に逃げ、他の多くの諸侯が戦死しました。
主な戦死者は、アランソン公、ボヘミア王、フランドル伯、ロレーヌ公と名だたる貴族が多く、クレシーの地で命を落としました。

そして、この戦いから、歴史は大きな変化を迎えることになります。