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英仏百年戦争物語 10:ポワティエの戦い

1356年9月、エドワード黒太子率いる6500のイングランド軍と、フランス王ジャン2世率いる1万8千のフランス軍は、ポワティエの南西に広がる草原で対峙していました。
イングランド軍は、ヌアイエの森に背を向けて、平原に大きく展開したフランス軍を見張っていました。

これが世に言う「ポワティエの戦い」です。

(ポワティエの戦い(Bataille de Poitier à Nouaillé-Maupertuis en 1356)(wikimedia))

両軍が対峙してから、エドワード黒太子は、「占領した全ての都市と城を返還して、捕虜も全員解放、さらに10万フランを支払うので、見逃してほしい。」とジャン2世に申し出ます。
しかし、ジャン2世の返答は、「エドワード黒太子と100人の騎士が降伏しなければダメだ。」というものでした。

さすがにエドワード黒太子がこれを受け入れられるわけもなく、交渉は決裂します。

この後、ジャン2世は、ポワティエの戦いを始まる前に致命的な失敗を犯します。
キリスト教と騎士道を重んじるフランス王は、日曜日を休日として、イングランド軍への開戦に踏み切らずに、猶予を与えてしまいます。

そして、この日にエドワード黒太子は、およそ3倍にあたる敵からの防御として、イングランド軍の前方にブドウの木で作った生垣と防護柵で固め、背後には堀を、右側面には略奪品や荷馬車、丸太で敵の攻撃を弱めるように、防御できうる限りの手を尽くします。
また、右側面に他に、修道院が建っていた事がエドワード黒太子には幸いだったのだと思います。そして、左側には湿地帯が広がっていました。

守りを固めたイングランド軍は、3部隊に分けて配置します。
第一陣は、ウォーウィック伯とサーフォーク伯。
第二陣は、エドワード黒太子。
第三陣は、ソールズベリー伯。

そして、イングランド軍の背後に広がる森に騎乗した騎士を茂みに伏兵として隠しました。

これに対して、フランス軍は、4部隊に分かれます。
第一陣 クレルモン将軍。
第二陣 シャルル王太子。
第三陣 オルレアン公。
第四陣 ジャン2世。

フランス軍も今回は、前回の経験を踏まえて、300名の騎士を除いて他は全員下馬して、戦闘に参加します。

1356年9月19日、イングランド軍の先鋒が襲い掛かる素振りをして、フランスの第一陣のクレルモン将軍を引き出して、開戦します。

フランス軍の唯一の騎乗したクレルモン将軍の騎兵隊がイングランド軍に襲い掛かりますが、生垣が上手く邪魔しててこずらせ、その間にクレシーの戦いでやってのけたように、長弓兵の矢を敵軍に降り注ぎます。

クレルモン将軍の騎兵隊は、イングランド軍の第一陣にたどり着くまでに、ほとんどの騎兵が大量の矢の前に屈して、戦場に倒れ、残りは撤退を余儀なくされます。
他に残っていた第一陣の石弓兵と槍兵(ドイツ傭兵)も、騎兵隊が敵を突破できずに矢を背に戻ってきた事で、一緒に撤退してしまいます。

そして、第二陣のシャルル王太子率いるフランスの騎士たちは、歩兵のままイングランド軍の築いた生垣を乗り越えて進軍しますが、これもまたたどり着くまでに、多くが無数の矢の前に膝を屈して戦場に屍をさらします。
このとき、シャルル王太子は、普段読書ばかりの生活でほとんど武術を心得ていないにも関わらず、一人で奮戦して、なんとか敵兵を退けていました。

しかし、フランス軍は、すでに第一陣・第二陣が崩れてしまっていたため、第三陣のオルレアン公は、戦わずして諦め、勝手に撤退を開始してしまいます。

これにより、最後に唯一残った大部隊を擁する第四陣のジャン2世の軍が、前進してイングランド軍に襲い掛かります。

ここで、クレシーの戦いではなかった事が起きます。
それは、長弓兵の規模が前回より小さかった事と、クレシーで矢に当たって暴れた馬が今回は居なかったことでした。(下馬していたため。)

そのため、ジャン2世の大軍は、イングランド軍を圧倒し始めます。イングランド軍は、出来うる限りの矢を放つのですが、大軍の前にイングランド軍は多くを倒せず、むしろ形勢は少しずつフランス軍に傾きつつありました。

しかし、ここでエドワード黒太子は、背後の森に隠していた騎兵部隊に突撃命令を出します。

この一手でこの戦闘に決着がつきました。

背後の森から飛び出したイングランド騎兵は、実は、フランスの南部を領するブーシュ伯ジャン・ドゥ・グライーのガスコーニュ騎兵でした。ガスコーニュ騎兵は、イングランド軍にかかりきりのフランス軍主力に襲い掛かります。

この予想外の騎兵の出現に、フランス軍は対処しきれず、イングランド騎兵に縦横無尽に崩され、ついに全軍が崩壊します。

(ポワティエの戦い((King John at the)Battle of Poitiers)(wikimedia))

しかし、ここでもジャン2世は、騎士道に忠実に逃げずに孤軍奮闘して留まります。これによって、フランス王とその側近たちは、イングランド軍に囲まれ、ついに降伏します。

ジャン2世は、こうしてイングランド軍の捕虜になります。
後にこのフランス王を解放してもらうために、フランスは多大な財政的負担を負うことになるのですが、ジャン2世は捕虜になる意味を知らずか、簡単に投降してしまいます。

逃げ延びた王太子シャルルは、このあとフランスの摂政として、多くの試練に立ち向かざるを得なくなるのですが、この試練が王太子シャルルの大切な人生経験になっていきました。

英仏百年戦争物語7:クレシーの戦い

1. 決戦のイングランド陣営

1346年8月26日、エドワード3世とエドワード黒太子の軍は、フランスはクレシーの郊外に展開し、フィリップ6世の率いるフランス軍と初めて対峙します。

イングランド軍の前衛は、エドワード黒太子の4500の右翼と、ノーサンプトン伯の4000余の左翼でした。そして、後衛中央に、エドワード3世が3000以上の兵力で陣を構えたとされています。
イングランド軍は合計およそ1万2千に達していたのですが、そのうち6千が弓兵で、他は騎士と槍兵で構成されていました。

また、陣形としては、黒太子とノーサンプトン伯の2隊が後衛を隠すように守っていたと言われますが、本などでは、エドワード3世が中央前面に出ていたとも言われていて、史料によって異なります。

エドワード3世は、弱冠16歳の若きエドワード黒太子を補佐するため、有能な家臣を数人、王太子につけています。

その中でも、戦術面を実質的にエドワード黒太子を補佐したのが、ジョン・チャンドスでした。彼は、当時珍しく、貴族の出身ではなかったのにも関わらず、エドワード3世配下の騎士として手勢を率いて、戦争に参加していました。ジョン・チャンドスは黒太子の親友かつ、戦場の経験を積んだ軍人として、若き黒太子をサポートしていました。

2. フランス軍の陣営

一方、フランス軍陣営は、名だたる諸侯が揃っていました。
フランス国内から、当時の家格では最高格の領主が参加していました。(ブロワ伯、アランソン伯、オーセール伯、サンセール伯、アラクール伯、フランドル伯、国外からは、ボヘミア王、マジョルカ王、モラヴィア侯、ロレーヌ公など)
その数は4万と、イングランド軍を圧倒する兵力で、戦場に展開していました。

両軍ともかなり高い比率で騎士が参加していたのですが、英仏間の一番の大きな違いは、イングランド軍は騎士が馬から下りて防衛線を築いていたことでした。
当時の騎士が戦場の主役だった時代にこの選択は、一見不可解なものだったのでは、と思われます。
一方フランス軍は、騎士は従来通り、馬に乗ったままその突進力で攻撃をかけるという方法で戦いに臨みました。

3. 決戦

そして、フランス軍のジェノバ傭兵が前進して、弓を射掛ける事で、戦闘が開始します。

このとき、イングランド軍に比べて矢の飛距離の短いジェノバ傭兵は、矢が届かないので前進したのですが、その間に次々に放つ矢が大きな犠牲を出して、ジェノバ傭兵部隊を撤退させたといわれています。
飛距離も発射間隔も、イングランド軍の弓兵は、スコットランド遠征の経験から、フランス軍に対して、圧倒的に有利な攻撃を繰り返しました。

※ただ、一部のイギリスの学者の説では、このとき雨が降っていたにも関わらず、ジェノバ傭兵が弓を引き絞ったまま待機していたので、一気に弦が悪くなってしまい、逆に弦をゆるめていたイングランド軍の弓兵は、本来の飛距離を出せたのだとも言われています。

そして、このジェノバ傭兵の撤退に憤ったフランス軍は、フィリップ6世の制止も聞かずに、隊形がバラバラのまま、イングランド軍に突撃を開始してしまいます。
イングランド軍の騎士は、面目を気にせずに、下馬して敵の攻撃を陣形を堅く守って撃退させ、弓兵は、ただひたすら敵軍に矢を射続けます。

フランス軍は、重厚な装備の騎士に、その騎士を乗せていた馬も厚い鎧を着せられていたので、速度としては、かなり遅いもので、突撃力に欠け、隊列も乱れていたので、効果的な攻撃をできませんでした。そして、フランス軍の騎士の多くは、絶えずに降ってくる矢に負傷して、戦場を離脱していくしかありませんでした。

4. フランス軍の崩壊

完全に大混乱に陥ったフランス軍に対して、イングランド軍は、乗馬した騎士に攻撃を開始させます。この攻撃が最後の決定打になり、フランスの撤退が始まりました。

フランス王フィリップ6世は、負傷しながらわずか60名の部下と供に逃げ、他の多くの諸侯が戦死しました。
主な戦死者は、アランソン公、ボヘミア王、フランドル伯、ロレーヌ公と名だたる貴族が多く、クレシーの地で命を落としました。

そして、この戦いから、歴史は大きな変化を迎えることになります。

英仏百年戦争物語 4:出兵準備

1. 350万 VS 1600万の戦争

1337年11月1日、イングランド王のエドワード3世は、フランス王位を継承したヴァロワ朝の創始者フィリップ6世に挑戦状を送り、いよいよ英仏間で百年戦争が開始します。
このとき、15歳でイングランドの王座に就いたエドワード3世は、すでに25歳になっていました。財政難への対処や議会との駆け引き、軍歴のどれを見ても、心身ともに以前とは見違える大人に成長していました。

しかし、百年戦争当時の両国の国力の差はかなり開いていました。イングランド(ウェールズ含む)の人口はおよそ350万人。それに比べて、フランスは1600万人と、統計上の差が大きく、イングランドは、実際ほとんどフランスのブルターニュ公や、ブルゴーニュ公などの大きな土地を領した貴族くらいの規模で、フランスと並ぶほどの国には発展していなかったと言われています。

人口が国力のすべてではありませんが、隣国間の戦争において、人口の多い国が兵力や経済力で優位に立ちやすいことは容易に想像できます。それにも関わらず、エドワード3世が、自国の4~5倍ほどの大国を相手に宣戦布告したのは、大変興味深いと思います。
エドワード本人に勝機があったのかは、知る由もありませんが、勝つ見込みがないのに始めたとはあまり考えられません。

2. エドワード3世の計略と政治

ちなみにエドワード3世は、百年戦争が始まる前に、将来の英仏間の開戦を予想していたのか、フランスに布石を打っています。
それは、フランスへの羊毛の輸出の禁止でした。これにより、フランドル地方の毛織物業が大きな打撃を受けます。そして、労働者を中心にフランドル伯への不満が高まり、内乱に発展します。これによって、貴族が親仏派、市民が親英派と分かれて戦う事になるのですが、これ一つを見てもエドワード3世の計略は冴えわたっていました。

ただ、それでもイングランド側には、開戦してから、幾つか困難に直面します。一番大きな問題は、軍費の捻出でした。
イングランドは、当時フランスとは違い、貴族の反対や分裂はありませんでした(後の薔薇戦争まで)。その代わり、イングランド王と議会の間での意見の衝突や不一致があり、それまで多くの王が、議会との話し合いを重視していました。
そして、この軍費を出すのにエドワード3世は、様々な手段でもって、資金を調達し、軍の派遣をこぎつける状態でした。まず、羊毛の最低価格を決め、さらに特定の商人に取引を許可する事で、価格を上げて収入を増やします。さらに、その羊毛の貿易の特権をイタリア商人に売り、他に動産税を取り入れるなど、次々と政策を打ち出します。

3. イングランド軍の出兵

これらの政策によって、エドワード3世は軍資金を得て、1338年ようやくエドワード3世は、何とか集めた3350名の兵を引き連れて、イングランド軍の第一回遠征が始まるのですが、フランスで落ち合うはずだった諸侯に理由をつけて渋られ、結局大陸への出兵は翌年1339年の7月になります。

ちなみに、話は少し前後するのですが、百年戦争の開戦の7年前、1330年3月4日、ウェストミンスターでフィリッパが男児を出産しています。
この男児が、後に漆黒の鎧を着て、戦場で勝利し続けることになるエドワード黒太子(Edward, the Black Prince)で、イギリスの戦史上に名を残す人物です。