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英仏百年戦争物語 10:ポワティエの戦い

1356年9月、エドワード黒太子率いる6500のイングランド軍と、フランス王ジャン2世率いる1万8千のフランス軍は、ポワティエの南西に広がる草原で対峙していました。
イングランド軍は、ヌアイエの森に背を向けて、平原に大きく展開したフランス軍を見張っていました。

これが世に言う「ポワティエの戦い」です。

(ポワティエの戦い(Bataille de Poitier à Nouaillé-Maupertuis en 1356)(wikimedia))

両軍が対峙してから、エドワード黒太子は、「占領した全ての都市と城を返還して、捕虜も全員解放、さらに10万フランを支払うので、見逃してほしい。」とジャン2世に申し出ます。
しかし、ジャン2世の返答は、「エドワード黒太子と100人の騎士が降伏しなければダメだ。」というものでした。

さすがにエドワード黒太子がこれを受け入れられるわけもなく、交渉は決裂します。

この後、ジャン2世は、ポワティエの戦いを始まる前に致命的な失敗を犯します。
キリスト教と騎士道を重んじるフランス王は、日曜日を休日として、イングランド軍への開戦に踏み切らずに、猶予を与えてしまいます。

そして、この日にエドワード黒太子は、およそ3倍にあたる敵からの防御として、イングランド軍の前方にブドウの木で作った生垣と防護柵で固め、背後には堀を、右側面には略奪品や荷馬車、丸太で敵の攻撃を弱めるように、防御できうる限りの手を尽くします。
また、右側面に他に、修道院が建っていた事がエドワード黒太子には幸いだったのだと思います。そして、左側には湿地帯が広がっていました。

守りを固めたイングランド軍は、3部隊に分けて配置します。
第一陣は、ウォーウィック伯とサーフォーク伯。
第二陣は、エドワード黒太子。
第三陣は、ソールズベリー伯。

そして、イングランド軍の背後に広がる森に騎乗した騎士を茂みに伏兵として隠しました。

これに対して、フランス軍は、4部隊に分かれます。
第一陣 クレルモン将軍。
第二陣 シャルル王太子。
第三陣 オルレアン公。
第四陣 ジャン2世。

フランス軍も今回は、前回の経験を踏まえて、300名の騎士を除いて他は全員下馬して、戦闘に参加します。

1356年9月19日、イングランド軍の先鋒が襲い掛かる素振りをして、フランスの第一陣のクレルモン将軍を引き出して、開戦します。

フランス軍の唯一の騎乗したクレルモン将軍の騎兵隊がイングランド軍に襲い掛かりますが、生垣が上手く邪魔しててこずらせ、その間にクレシーの戦いでやってのけたように、長弓兵の矢を敵軍に降り注ぎます。

クレルモン将軍の騎兵隊は、イングランド軍の第一陣にたどり着くまでに、ほとんどの騎兵が大量の矢の前に屈して、戦場に倒れ、残りは撤退を余儀なくされます。
他に残っていた第一陣の石弓兵と槍兵(ドイツ傭兵)も、騎兵隊が敵を突破できずに矢を背に戻ってきた事で、一緒に撤退してしまいます。

そして、第二陣のシャルル王太子率いるフランスの騎士たちは、歩兵のままイングランド軍の築いた生垣を乗り越えて進軍しますが、これもまたたどり着くまでに、多くが無数の矢の前に膝を屈して戦場に屍をさらします。
このとき、シャルル王太子は、普段読書ばかりの生活でほとんど武術を心得ていないにも関わらず、一人で奮戦して、なんとか敵兵を退けていました。

しかし、フランス軍は、すでに第一陣・第二陣が崩れてしまっていたため、第三陣のオルレアン公は、戦わずして諦め、勝手に撤退を開始してしまいます。

これにより、最後に唯一残った大部隊を擁する第四陣のジャン2世の軍が、前進してイングランド軍に襲い掛かります。

ここで、クレシーの戦いではなかった事が起きます。
それは、長弓兵の規模が前回より小さかった事と、クレシーで矢に当たって暴れた馬が今回は居なかったことでした。(下馬していたため。)

そのため、ジャン2世の大軍は、イングランド軍を圧倒し始めます。イングランド軍は、出来うる限りの矢を放つのですが、大軍の前にイングランド軍は多くを倒せず、むしろ形勢は少しずつフランス軍に傾きつつありました。

しかし、ここでエドワード黒太子は、背後の森に隠していた騎兵部隊に突撃命令を出します。

この一手でこの戦闘に決着がつきました。

背後の森から飛び出したイングランド騎兵は、実は、フランスの南部を領するブーシュ伯ジャン・ドゥ・グライーのガスコーニュ騎兵でした。ガスコーニュ騎兵は、イングランド軍にかかりきりのフランス軍主力に襲い掛かります。

この予想外の騎兵の出現に、フランス軍は対処しきれず、イングランド騎兵に縦横無尽に崩され、ついに全軍が崩壊します。

(ポワティエの戦い((King John at the)Battle of Poitiers)(wikimedia))

しかし、ここでもジャン2世は、騎士道に忠実に逃げずに孤軍奮闘して留まります。これによって、フランス王とその側近たちは、イングランド軍に囲まれ、ついに降伏します。

ジャン2世は、こうしてイングランド軍の捕虜になります。
後にこのフランス王を解放してもらうために、フランスは多大な財政的負担を負うことになるのですが、ジャン2世は捕虜になる意味を知らずか、簡単に投降してしまいます。

逃げ延びた王太子シャルルは、このあとフランスの摂政として、多くの試練に立ち向かざるを得なくなるのですが、この試練が王太子シャルルの大切な人生経験になっていきました。

英仏百年戦争物語8:優勢のイングランド軍

1. クレシーの戦い後のイングランド軍の勢い

クレシーの戦いの後から、イングランドとフランスの立場に大きな変化が訪れてきます。

今まで大国フランスに立ち向かう小国イングランドの戦いという様相が強かったのですが、このクレシーの戦いと次のポワティエの戦いの時期が転換期となり、常勝軍率いるイングランドに対するフランス軍の戦いに変わっていくからです。

つまり、時勢がイングランドに傾き、それを知りつつも、その困難をフランスがどう乗り越えるか、という点が歴史の境目になります。

クレシーの戦いの後、イングランド軍は、港町カレーを1347年までかけて陥落させ、さらにアキテーヌでも、順調に諸都市を手に入れ、更にブルターニュでは、敵の総大将ブロワ伯シャルルをラ・ロシュ・デリアンの戦いで捕虜にして、フランスの各地をイングランド陣営の占領下にします。

2. ネヴィルズ・クロスの戦い

スコットランドでも、イングランド軍は決定的な勝利を収めます。

数知れない反乱で、デイビッド2世はベイリアルを完全に操り、ベイリアルも初期の戦闘の冴えが見られずに、スコットランド軍の前に後退を余儀なくされてしまっていました。
そして、1467年10月17日、ネヴィルズ・クロスの戦いで、8000のイングランド軍は、1万人のスコットランド人と死闘を繰り広げます。

さすがにスコットランド軍は、イングランド軍の弓の威力をすでに研究済みで、逆にスコットランド軍歩兵の絶え間ない猛攻の前にイングランド軍は幾度も混乱に陥るものの、その度に立て直します。
そして、ただひたすら防御に回ったにも関わらず、スコットランド軍が多くの武将を戦場で失い、ついに士気の低かったスコットランド民兵が逃げ出したのを契機に、スコットランド軍の攻撃は失敗に終わり、多くの死体を残して敗退します。
そして、スコットランド王を称して、イングランドに反抗し続けた総大将デイビッド2世は、ついにイングランド軍に捕縛され、勝敗がつきました。

このとき、イングランド軍の中でもベイリアルの利用価値はすでになくなっていて、彼は、形式的にもスコットランド領を持つ事になりますが、やがて引退して形式的な権限もイングランドに全て譲り渡し、イングランドからお金を貰いながら、隠居生活をしたといわれています。

エドワード・ベイリアルは、結婚していなかったため、子供もなく、静かにその生涯を閉じたといわれています。そして、彼の死と共にベイリアル家は断絶します。

3. 英仏で時代の転換期

さて、どちらにしろ、これでイングランドのエドワード3世は、大陸でも、北のスコットランドでも勝利を得て、イングランドの春を謳歌します。

その後、小競り合いが続くのですが、1350年頃には数年前から続いていた「黒死病」(ペスト)が更に流行して、人口が一気に減少してしまいます。

1350年8月26日、フランス王フィリップ6世は、この世を去ります。
これによって、ヴァロワ朝の初代から2代目ジャン2世の時代に変わります。

そのため、しばらくは小競り合いのみが続き、ようやく次の歴史の歯車が動き出すのは、1354年4月のアヴィニョンの英仏和平会談でした

英仏百年戦争物語7:クレシーの戦い

1. 決戦のイングランド陣営

1346年8月26日、エドワード3世とエドワード黒太子の軍は、フランスはクレシーの郊外に展開し、フィリップ6世の率いるフランス軍と初めて対峙します。

イングランド軍の前衛は、エドワード黒太子の4500の右翼と、ノーサンプトン伯の4000余の左翼でした。そして、後衛中央に、エドワード3世が3000以上の兵力で陣を構えたとされています。
イングランド軍は合計およそ1万2千に達していたのですが、そのうち6千が弓兵で、他は騎士と槍兵で構成されていました。

また、陣形としては、黒太子とノーサンプトン伯の2隊が後衛を隠すように守っていたと言われますが、本などでは、エドワード3世が中央前面に出ていたとも言われていて、史料によって異なります。

エドワード3世は、弱冠16歳の若きエドワード黒太子を補佐するため、有能な家臣を数人、王太子につけています。

その中でも、戦術面を実質的にエドワード黒太子を補佐したのが、ジョン・チャンドスでした。彼は、当時珍しく、貴族の出身ではなかったのにも関わらず、エドワード3世配下の騎士として手勢を率いて、戦争に参加していました。ジョン・チャンドスは黒太子の親友かつ、戦場の経験を積んだ軍人として、若き黒太子をサポートしていました。

2. フランス軍の陣営

一方、フランス軍陣営は、名だたる諸侯が揃っていました。
フランス国内から、当時の家格では最高格の領主が参加していました。(ブロワ伯、アランソン伯、オーセール伯、サンセール伯、アラクール伯、フランドル伯、国外からは、ボヘミア王、マジョルカ王、モラヴィア侯、ロレーヌ公など)
その数は4万と、イングランド軍を圧倒する兵力で、戦場に展開していました。

両軍ともかなり高い比率で騎士が参加していたのですが、英仏間の一番の大きな違いは、イングランド軍は騎士が馬から下りて防衛線を築いていたことでした。
当時の騎士が戦場の主役だった時代にこの選択は、一見不可解なものだったのでは、と思われます。
一方フランス軍は、騎士は従来通り、馬に乗ったままその突進力で攻撃をかけるという方法で戦いに臨みました。

3. 決戦

そして、フランス軍のジェノバ傭兵が前進して、弓を射掛ける事で、戦闘が開始します。

このとき、イングランド軍に比べて矢の飛距離の短いジェノバ傭兵は、矢が届かないので前進したのですが、その間に次々に放つ矢が大きな犠牲を出して、ジェノバ傭兵部隊を撤退させたといわれています。
飛距離も発射間隔も、イングランド軍の弓兵は、スコットランド遠征の経験から、フランス軍に対して、圧倒的に有利な攻撃を繰り返しました。

※ただ、一部のイギリスの学者の説では、このとき雨が降っていたにも関わらず、ジェノバ傭兵が弓を引き絞ったまま待機していたので、一気に弦が悪くなってしまい、逆に弦をゆるめていたイングランド軍の弓兵は、本来の飛距離を出せたのだとも言われています。

そして、このジェノバ傭兵の撤退に憤ったフランス軍は、フィリップ6世の制止も聞かずに、隊形がバラバラのまま、イングランド軍に突撃を開始してしまいます。
イングランド軍の騎士は、面目を気にせずに、下馬して敵の攻撃を陣形を堅く守って撃退させ、弓兵は、ただひたすら敵軍に矢を射続けます。

フランス軍は、重厚な装備の騎士に、その騎士を乗せていた馬も厚い鎧を着せられていたので、速度としては、かなり遅いもので、突撃力に欠け、隊列も乱れていたので、効果的な攻撃をできませんでした。そして、フランス軍の騎士の多くは、絶えずに降ってくる矢に負傷して、戦場を離脱していくしかありませんでした。

4. フランス軍の崩壊

完全に大混乱に陥ったフランス軍に対して、イングランド軍は、乗馬した騎士に攻撃を開始させます。この攻撃が最後の決定打になり、フランスの撤退が始まりました。

フランス王フィリップ6世は、負傷しながらわずか60名の部下と供に逃げ、他の多くの諸侯が戦死しました。
主な戦死者は、アランソン公、ボヘミア王、フランドル伯、ロレーヌ公と名だたる貴族が多く、クレシーの地で命を落としました。

そして、この戦いから、歴史は大きな変化を迎えることになります。

英仏百年戦争物語6:女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドル

ブルターニュ継承戦争についてのお話です。

1. ブルターニュ継承戦争の序盤

1341年の4月30日にブルターニュ公ジャン3世が死去してから、およそ2ヶ月のうちに、後継者の一人であるモンフォール伯は、ブルターニュ領のほとんどの領地を支配下に治めます。

モンフォール伯がブルターニュの主邑都市ナントを手に入れたとき、領民はモンフォール伯に喝采を浴びせて迎えたといわれています。

しかし、フランス王の甥であり、ブルターニュ領のもう一人の継承者であるジャンヌと結婚したシャルルは、フランスの大軍でもって、ナントに攻め入り、あっけなくモンフォール伯を捕虜にしてしまいます。

これによって、戦争は終わったかに見えましたが、これで終わらせなかった人物が二人います。

2. 女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドルの奮戦

一人は、モンフォール伯の妻、ジャンヌ・ドゥ・フランドルでした。このジャンヌは、「獅子心」を持つ、女傑といわれ、この継承戦争を実質的に継続させた指導者でした。
百年戦争のジャンヌといえば、ジャンヌ・ダルクの知名度が高いですが、このジャンヌ・ドゥ・フランドルもまた、徹底抗戦で敵を恐れさせた優秀な指導者と言えます。

そして、もう一人が、エドワード3世です。彼は援軍を送り、ブルターニュの地でフランス軍と激戦を繰り広げながら、ジャンヌを助け、戦争を続けました。

ジャンヌは、夫のモンフォール伯がいなくなった後も、息子のジャンを守るため、エンヌボン城に立てこもり続けました。そして、城に一緒に籠もっていた女たちに、「スカートを切り、自らの身を自らの手で守るのです。」と呼びかけ、自分は城主として、武装して指揮を執り続けました。
そして、ジャンヌは敵の隙をつき、配下の騎士を率いて城外に飛び出し、敵の後方の陣営を破壊するなど大胆な行動にも出ています。

3. イングランド軍率いるウォルター・マーニー

この鬼神の働きをするジャンヌを助けるため、エドワード3世は配下の中でも優秀なウォルター・マーニーに、340の兵を授けて、援軍に向かわせます。
このウォルター・マーニーは、到着すると直ぐに、フランス軍に夜襲をかけて戦力を削いで、その後の戦いでも勝利を続けるなど、予想以上の活躍をします。

この報を聞くと、イングランド本国は沸き立ちます。
実は、失地王ジョンの世代から、エドワード1世、エドワード2世と3代にわたって、フランスへの陸戦では敗北ばかり経験していたからです。

ちなみに、このウォルター・マーニーは、21歳のときに、エドワード3世の妻、フィリッパの供として連れてこられたのが、始まりでした。小領主の末っ子の生まれで、決していい境遇で育ったとは言えないこの青年は、エドワード3世とフィリッパに気に入られて、準騎士、騎士と出世して、スコットランドとのダプリン・ムーアの戦い、ギャドザントの戦いで活躍して、この遠征司令官への抜擢を受けた人で、まさに這い上がってきた武将といえます。

4. 1343年の休戦と戦争の再開

このウォルター・マーニーと、ジャンヌ・ドゥ・フランドルの活躍で、イングランド陣営はこのブルターニュ継承戦争を有利に進めて、後にエドワード3世自身も大軍を率いて参戦しています。ちなみに、このイングランド国王の留守の際に、エドワード黒太子が弱冠12歳ながら、政治を行っています。
そして、1343年に教皇の仲介により、休戦協定が結ばれ、1346年には戦闘はなくなりました。

しかし、エドワード3世は1346年7月、再び軍を起こして、息子のエドワード黒太子と共に、ブルターニュ継承戦争で得た足場からフランスとの戦いに踏み切ります。
数々の町や都市を行軍して、エドワード3世と黒太子の軍は、クレシーの郊外で、フィリップ6世率いるフランス軍と対峙します。

英仏百年戦争物語 5:エドワード3世の試練

1. イングランドの複雑な事情

1338年、エドワード3世は、フランスのフランドルに上陸し、1339年に本格的なフランス領への侵攻を始めるものの、フランス王フィリップ6世に相手にされず、本格的な合戦に発展しませんでした。1340年になると、軍資金が底をついたことから、エドワード3世は、早くもイングランドに帰国せざるを得なくなります。

エドワード3世は戦争を行う中で、イングランドがフランスに比べて国力があまりないことから、常に軍事費の調達に苦心していました。
実は、戦いが起こっていたのは、フランスだけでなく、百年戦争勃発の原因ともなっているスコットランドでも、まだ続いていました。エドワード3世のサポートで征服したベイリアルが、いまだに旧支配者のデイビッド(2世)派との戦いを繰り広げていたからです。

ベイリアルという貴族は、軍事面の資質では、優れた能力を発揮した人物でしたが、政治的なセンスは持ち合わせていなかったようで、常に反乱を起こされ、スコットランドの主要都市であるパースが敵に囲まれるなど、窮地に立たされていました。

そのため、戦争が始まってもエドワード3世は、思うように兵を集められないばかりか、やっと軍事行動を起こしても、その弱点をフランス王フィリップ6世に見透かされて、時間稼ぎをされるなどして、軍事費が底をついたり、補給が途絶えてしまっていました。

2. イングランドの海戦勝利

1340年6月、フランドル沿岸のエクリューズで大規模な海戦が行われました。

フランスが、イングランド上陸の作戦を打ち立てて、400隻の船に兵力2万でもって攻撃を開始したのです。
これに対して、エドワード3世は必死に兵をかき集めるものの、装甲兵と弓兵を集めても約2500ほどしか集まりませんでした。しかし、船の方は160隻と比較的数は揃うことができました。

そして、やはり戦いは、数では決まらない所が面白いです。

フランス海軍が3つに分かれて攻撃を仕掛けてきたのを見たイングランド海軍は、括弧撃破でもって、あっさりと圧倒的有利だったフランス海軍を打ち破ってしまいます。この戦いで、イングランド軍は、敵軍の総数の半分にあたる200隻の帆船を捕獲しています。

これに勢いを得たエドワード3世、ついにフランスへ軍事行動を開始するのですが、先軍として送っていた1万5千がサン・オマーの地で、フランス軍に打ち破られてしまいます。その後、エドワード自ら総軍を率いて進むものの、フランス軍が大兵力でもって堅く城に籠もって守るなどして、応戦したため、うまく進めずに、膠着状態に陥り、結局教皇の仲介で、休戦を結んでしまいました。

フランスを倒すためとはいえ、膨大な軍事費をかけてまでして遠征して、それが無に帰してしまった痛手は大きかったようですが、イングランドは更なる戦争に参加する事になってしまいます。

それが、ブルターニュ継承戦争です。

3. さらなる後継者争い

少し話が複雑になってしまいますが、百年戦争は、スコットランド、フランス、ブルターニュの3つの領地で、後継者争いが起こったものです。

ブルターニュでは、ブルターニュ公ジャン3世が子供を残さずに死んでしまい、その異母弟のモンフォール伯と、姪のジャンヌの二人に王位継承の資格が残されていました。

しかし、姪のジャンヌは、すでにフランス王の甥(ブラワ伯シャルル)と結婚していたため、すでに勢力図は決まってしまっていたので、逆にモンフォール伯は、イングランド王に支援を求めるべく、イングランド王のフランス王位継承の資格を認め、全面的にエドワード3世側につきます。

これによって、英仏両国の溝はさらに深まることになり、ブルターニュも含めて、戦争は多角的な闘争へと発展していきます。

英仏百年戦争物語 4:出兵準備

1. 350万 VS 1600万の戦争

1337年11月1日、イングランド王のエドワード3世は、フランス王位を継承したヴァロワ朝の創始者フィリップ6世に挑戦状を送り、いよいよ英仏間で百年戦争が開始します。
このとき、15歳でイングランドの王座に就いたエドワード3世は、すでに25歳になっていました。財政難への対処や議会との駆け引き、軍歴のどれを見ても、心身ともに以前とは見違える大人に成長していました。

しかし、百年戦争当時の両国の国力の差はかなり開いていました。イングランド(ウェールズ含む)の人口はおよそ350万人。それに比べて、フランスは1600万人と、統計上の差が大きく、イングランドは、実際ほとんどフランスのブルターニュ公や、ブルゴーニュ公などの大きな土地を領した貴族くらいの規模で、フランスと並ぶほどの国には発展していなかったと言われています。

人口が国力のすべてではありませんが、隣国間の戦争において、人口の多い国が兵力や経済力で優位に立ちやすいことは容易に想像できます。それにも関わらず、エドワード3世が、自国の4~5倍ほどの大国を相手に宣戦布告したのは、大変興味深いと思います。
エドワード本人に勝機があったのかは、知る由もありませんが、勝つ見込みがないのに始めたとはあまり考えられません。

2. エドワード3世の計略と政治

ちなみにエドワード3世は、百年戦争が始まる前に、将来の英仏間の開戦を予想していたのか、フランスに布石を打っています。
それは、フランスへの羊毛の輸出の禁止でした。これにより、フランドル地方の毛織物業が大きな打撃を受けます。そして、労働者を中心にフランドル伯への不満が高まり、内乱に発展します。これによって、貴族が親仏派、市民が親英派と分かれて戦う事になるのですが、これ一つを見てもエドワード3世の計略は冴えわたっていました。

ただ、それでもイングランド側には、開戦してから、幾つか困難に直面します。一番大きな問題は、軍費の捻出でした。
イングランドは、当時フランスとは違い、貴族の反対や分裂はありませんでした(後の薔薇戦争まで)。その代わり、イングランド王と議会の間での意見の衝突や不一致があり、それまで多くの王が、議会との話し合いを重視していました。
そして、この軍費を出すのにエドワード3世は、様々な手段でもって、資金を調達し、軍の派遣をこぎつける状態でした。まず、羊毛の最低価格を決め、さらに特定の商人に取引を許可する事で、価格を上げて収入を増やします。さらに、その羊毛の貿易の特権をイタリア商人に売り、他に動産税を取り入れるなど、次々と政策を打ち出します。

3. イングランド軍の出兵

これらの政策によって、エドワード3世は軍資金を得て、1338年ようやくエドワード3世は、何とか集めた3350名の兵を引き連れて、イングランド軍の第一回遠征が始まるのですが、フランスで落ち合うはずだった諸侯に理由をつけて渋られ、結局大陸への出兵は翌年1339年の7月になります。

ちなみに、話は少し前後するのですが、百年戦争の開戦の7年前、1330年3月4日、ウェストミンスターでフィリッパが男児を出産しています。
この男児が、後に漆黒の鎧を着て、戦場で勝利し続けることになるエドワード黒太子(Edward, the Black Prince)で、イギリスの戦史上に名を残す人物です。

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1.スコットランドの武人たちの死

1329年にロバート・ブルースが死去して、弱冠5歳の息子デイビッドが即位し、デイビッド2世と名乗ります。

更にエドワード3世にとって、朗報はこれだけではありませんでした。ロバート・ブルースの家臣の中でも戦闘経験を積んで、並外れた戦上手だったジェームズ・ダグラスが、戦死したのです。
主君ロバート・ブルースが死ぬ直前に自分の首を聖地エルサレムに運ぶように遺言を残していたので、その遺言を果たすべく、ダグラスは聖地へ向かいます。しかし、途中のフランドルでカスティリア王とグラナダ王の戦闘に参加して、その戦闘で部下と共に敢えなく討ち死にしてしまったのです。

2.転機となったスコットランド遠征

これによりエドワード3世は、スコットランドが弱体化しているものと考え、スコットランド王位継承資格を有するスコットランド貴族エドワード・ベイリアルに経済的支援を行って、このベイリアルにスコットランドへ遠征させます。
ちなみに、エドワード・ベイリアルは、ロバート・ブルースが即位する前の王だったジョン・ベイリアルの息子です。父親のジョンは、エドワード1世(3世の祖父)に徹底的に打ち破られて、王位を捨てた上に、ロンドン塔に幽閉されています。
そのため、息子ベイリアルの前半生は、悲劇の連続で、ロバート・ブルースがスコットランド王に即位した事で、彼の存在はほとんど歴史から消え去られていました。

しかし、エドワード・ベイリアルは、実は軍事的才能に恵まれた武将でした。ほとんど戦闘経験がないにも関わらず、この悲劇な境遇に育った47歳の男は、エドワード3世の支援を受けて、ベイリアル家復活の遠征に乗り出します。

何とか1500人の兵をイングランド領内でかき集めたベイリアルは、海路でスコットランドに向かいます。
これは、議会の反対を予想したエドワード3世が、議会側に知られないようにするために、ベイリアルに指示したためと言われています。

3.華麗な戦術のダプリン・ムーアの戦い

スコットランドに到着したベイリアルに対して、デイビッド王の側近は、2万とも3万とも言われる兵力をかき集めました。そして、アーン河の畔で両軍は対峙するのですが、その夜ベイリアルは、夜襲をかけて、敵に大打撃を与えます。

これにより、寡兵と侮っていたスコットランド軍も徹底的にベイリアルを打ち破る勢いで、いよいよ戦端が開かれることになります。ベイリアル軍1500人 VS スコットランド軍2万人の戦い、ダプリン・ムーアの戦いです。
ベイリアルは、スコットランド軍を峡谷に引きずり込みます。そして、そこで戦いが始まるのですが、ここで後世に残る戦術がベイリアルによって、披露されることになります。

ベイリアルは、500人の騎士を中央に配置して、左右に500人ずつの長弓兵を斜めに配置して、敵を包み込むように陣形を作ります。これは、ちょうど鶴翼の陣と同様の形で、左右の翼が弓隊になっています。

戦闘を開始すると、2万のスコットランド軍は、その兵力を活かして、突撃を敢行します。それがとても激しい攻撃だったらしく、ベイリアル軍は、崩壊寸前まで押されますが、ギリギリのところで持ち堪えます。そして、ベイリアル軍の左右の長弓兵が次から次へと放つ矢に、スコットランド兵は、みるみるうちに倒され、焦ったスコットランド軍側は、更なる部隊を繰り出して押し出そうとするのですが、それが今度は前後に味方の部隊が入り乱れて大混乱を引き起こし、収拾不能になってしまいます。
冷静なベイリアルは、徹底的に長弓兵に手を休まずに射撃を続けさせ、最後にはスコットランド軍の司令官も討ち死にし、スコットランドは大敗を喫します。

このダプリン・ムーアの戦いは、奇跡と言っても過言でないくらいのベイリアルの大勝利であり、スコットランドに大きな衝撃を与えます。
その後もベイリアルは戦闘を続けて順調に勝利するものの、部下の裏切りに合い、結局身一つでイングランドに戻り、エドワード3世に再度支援を求めます。

4.英仏百年戦争の勃発

これに応じたエドワード3世は、自ら兵を率いて北上し、デイビッドの家臣の指揮する軍を、ベイリアルの戦術を真似るかの如く、長弓兵を駆使して、ハリドン・ヒルの戦いで打ち破ります。このときは、イングランド軍1万に対して、スコットランド軍は1万5千もの兵力を持っていました。

このようなエドワード3世とベイリアルの共同戦線で、デイビッド2世は、遂にフランスに逃亡してしまいます。そして、それを受け入れたフランス王フィリップ6世は、エドワード3世に対して、イングランドがフランスに持っていた領土(アキテーヌ)の没収を宣言します。

これに応じるが如く、エドワード3世もフランス王フィリップ6世に宣戦布告。

これが、百年戦争の幕開けです。いよいよ100年に及ぶ戦争が両国の間で繰り広げられることになります。

英仏百年戦争物語 2:エドワード3世の登場

1.父親をクーデターで廃位させた15歳の王

(『エドワード3世(18世紀)』(Edward III (18th century) )(wikimedia))

1327年1月、エドワード3世が15歳の若さでイングランド王位を継承します。前年1326年に父親のエドワード2世は妻イザベル(エドワード3世の生母)のクーデターによって、廃位させられたあげくに謀殺されているのですが、そんな弱々しい父親に比べて、このエドワード3世こそ百年戦争開始から50年間王位に居続けて、イングランド軍側を圧倒的優位に導いた君主でした。特に戦いでは、趨勢を決める場面で勝利を収め、フランス軍を追い詰める事になります。
しかし、その栄光は、彼が長い辛い試練を乗り越えて得た産物でした。

2.強き国スコットランド

まず、エドワード3世の王としての最初の仕事は、スコットランドとの戦いでした。
父親エドワード2世が、ロバート・ブルース率いるスコットランド軍にバノックバーンの戦いで大敗を喫して、その後もただ敗北し続けたため、エドワード3世が後を継いだときには、イングランド北部では多くの土地を失っていて、常にスコットランド軍の侵略の危険にさらされていました。
ちなみに、バノックバーンの戦いは、スコットランド軍1万(ロバート・ブルース)に対して、イングランド軍3万(エドワード2世)で戦闘を行ったにも関わらず、単調な戦法で正面突破を試みてイングランド軍が大損害を被ってしまう、といういきさつでした。

ちなみに、このロバート・ブルースは、かの有名な映画「ブレイブハート」のウィリアム・ウォレスと共に戦い(映画でもロバート・ブルースは登場します。)、そしてウィリアム・ウォレスの死後、長い闘争の末に独立を勝ち取って王位に就いた人物です。

(ロバート・ブルース)© Ad Meskens / Wikimedia Commons

3.後の英雄には屈辱の初陣

しかし、ロバート・ブルースはこのときすでに老齢で病気がちになっていたので、家臣のジェームズ・ダグラスが攻めてくるのですが、これに対して大軍を率いて迎えたエドワード3世には、試練のときでした。

彼はまだ若干15歳という事もあって、スコットランド独立を勝ち取った歴戦の武将、ダグラスにまさに子供のように翻弄されてしまいます。エドワードは、敵の所在が掴めずにあちこちでダグラスに略奪を繰り返されては、イングランドの北部の土地をさ迷います。そして、彼は軍を幾つかの部隊に分けて敵を待ちますが、それでもダグラスを捉えることができずに、逆に家臣が捕虜になるなど、ダグラスの相手にはなりませんでした。

最後にはスタンホープ・パークの戦いで、僅かな手勢を率いたダグラスに、大軍のイングランド軍の本陣に奇襲をかけられ、エドワード3世は家臣と共に必死に逃げるという辛い初陣を経験することになりました。
結局、ダグラスは、エドワード3世を好き放題に翻弄したあげくに、スコットランドに悠々と戻っていきます。

(『スタンホープ・パークの戦い』(Battle of Stanhope Park)(wikimedia))

やむを得ず、エドワード3世は軍を引き揚げて、城に帰還するのですが、やはり体裁としては、かなり悪かったようです。(しかし、その後スコットランドのダグラスは、イングランド側と話し合い、次期スコットランド王のデビッド(4歳)に、エドワード3世の妹のジョアン(7歳)を嫁がせて、和平を結んでいます。)

4.ヴァロワ朝の始まり

1328年1月、エドワード3世(15歳)はエノー伯の娘フィリッパ(13歳)と結婚します。

ところが、その翌月に重大な異変が起きます。
フランスのカペー朝のシャルル4世(端麗王)が、子供を残さずに死去してしまったのです。これによって、従兄弟のヴァロワ家出身のフィリップが王位を継いで、フィリップ6世と名乗ります。(ヴァロワ朝の始まり)

問題は、このフィリップ6世が5代前のフィリップ3世の孫で、イングランにいるエドワード3世も、実はそのフィリップ3世の直孫にあたり、二人の王位継承資格は対等なものでした。
そのため、そのイングランドのエドワード3世を無視して、伯になっていたフィリップがフランス王を名乗ったので、エドワード3世は異議を唱えますが、イングランドにて、スコットランド相手にてこずっている彼には、どうしようもできません。

関係は険悪なまま時は過ぎていくのですが、翌年1329年6月、スコットランド王ロバート・ブルースが死ぬ事で、英仏の時代の歯車は大きく動き出します。

英仏百年戦争物語 1:勝者

1.英仏百年戦争の勝者は英仏両国

個人的には、この百年戦争の話は、高校の世界史の授業で苦境に立たされていたフランスにジャンヌ・ダルクが突如現れて、唯一の砦であるオルレアンを解放して、劇的に挽回し、最後には勝利に終わったと教えられた記憶があります。

まず、このフランスの勝利で終わったという話で、現在のイギリス人とすでに食い違いがあります。イギリスでは、百年戦争は「イングランドの勝利に終わった。」と記録されていて、シェークスピアもその幾つかの著作の中でイングランドの勝利を何度か取り上げています。
実はこの百年戦争は、途中で何度か和睦が結ばれているのですが、イギリスの教科書では、百年戦争の歴史は、いわゆる日本人やフランス人などが知る百年戦争の途中で合意した和睦をもって終結したものとなっています。よって、その後の英仏間の戦闘はイギリスの教科書では百年戦争に含まれていません。そのため、イングランドの圧勝のまま和睦となり、幕を閉じた一連の戦いまでを、イギリス人は百年戦争と考えているのです。

さらに、百年戦争は、後世の人の目から歴史を見たときに、「百年戦争」と区切っているだけでして、実際には両国間で戦闘が行われたのを、20世紀に入ってからそう呼んだものです。

ちなみに、ジャンヌ・ダルクはもちろん現在のイギリス人の間にも認識されていて、その名前を知っていますが、それはイングランド側の政治の混乱に乗じて、フランスが息を吹き返したという話になっています。

2.ウィリアム征服王について

これは、百年戦争というよりもイングランドの歴史についてですが、このウィリアム征服王がヘイスティングスの戦いで勝利を収めるまで、イングランドはヴァイキングに絶えず襲撃されて不安定な時代を迎えていたといわれていますが、このウィリアム征服王こそ、文献で証明されるヴァイキングの血を引く者です。これによってイングランドが始まったというよりも、ヴァイキングの一族に完全に掌握された歴史と言えると思います。

ただ、このウィリアム1世は、正確には「ノルマンディー公ウィリアム」と言ったため、フランスのノルマンディーに領土を持つ領主(ロロを初代に持つ一族)でした。それが、遠征してイングランドを征服したに過ぎず、当初の本拠地はもちろんフランスのノルマンディーで、征服したイングランドの土地は、ほとんど植民地としての役割を果たしていました。
実際ウィリアムは常にフランス側に滞在し、征服時と反乱鎮圧以外は祖国フランスで生活していました。そして、彼自身は常にフランス語を使っていたこともあり、彼は確実にフランス人または、フランス語を話すヴァイキングの末裔といった方が正確な理解なのだと思います。

3.イングランドVSフランス?

上述のようにウィリアム征服王が占領したイングランドはイングランドという国ではなく、フランスの一豪族に過ぎないため、フランスの領主の勢力争いとも言えます。


このイングランド征服を皮切りに始まる、ノルマンディー公の勢力拡大は、さらに政略結婚で続けられるのですが、それがフランス王位も含めての領土継承の戦いに発展していきます。1453年になって百年戦争終結がすると、フランスでのほとんどの領土を失う事になったイングランド王家は、そのときに初めてイングランドという国の領主となったと言えます。