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【コラム9】柴田勝家 その3:生涯織田家の部将

・羽柴秀吉の野心

 1582年6月、羽柴秀吉と柴田勝家を含めた織田家の重臣たちで清須会議が行われます。この会議で、秀吉の陣営が京を含む旧織田領の大半を獲得します。一方、勝家が得た領地は、近江の長浜城20万石のみです。山崎の戦いに参加しなかった武将で領地を得たのは勝家だけでしたので、強くは言えなかったのでしょう。そして、織田家の家督は、秀吉が主導して織田信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)に決まります。

清須会議後、秀吉はいよいよ野心を見せ始めます。10月、秀吉は京の大徳寺で、勝家や織田一門の織田信雄や織田信孝不在の中、独断で信長の葬儀を挙行します。

さらに、10月28日、秀吉は京で丹羽長秀、池田恒興と談合すると、突然、清須会議で決めた織田家の家督を三法師から織田信雄に変更します。完全な手のひら返しです。

ついに12月15日、秀吉は、勝家が清須会議で唯一得た長浜城を調略で味方に引き込みます。秀吉の人たらしの人心掌握術も然りながら、長浜城の城主の柴田勝豊は、勝家の養子にも関わらず、秀吉へ寝返ってしまっている点に、勝家と柴田勝豊との間に亀裂があったことは否めません。

さらに秀吉の進撃は止まりません。

秀吉は、長浜城入城の翌日、織田信孝の拠点、美濃へ侵攻開始。たった5日で織田信孝を降伏させ、美濃を手に入れます。1583年に入ると、秀吉は伊勢にも侵攻を開始し、滝川一益と激戦を繰り広げます。

・秀吉と仲が良かった勝家

秀吉が活発に自陣営の拡大に勤しんでいた頃、勝家も各地の武将に書状を送っています。その中で、勝家が同僚の堀秀政に送った書状には、興味深いことが書かれています。

「もともと秀吉と勝家は仲が良かったので、心を開いて相談したい。」

映画やドラマにはフィクションの要素があるとは言え、勝家が秀吉を毛嫌いし、見下すような人間関係が描かれることが多いことから、少し意外に感じます。

さらに、同じ書状の中で勝家は、今は内輪揉めはせずに外敵を退治すること、並びに、主君信長の行った仕置き(統治/政策)を静穏に守るべきことを伝えています。これは、他の同僚宛の書状でも、勝家は、織田のために尽くすべきことを説いています。

つまり勝家は、生涯織田家の部将だったのです。

しかし、それでも態度の変わらない秀吉陣営の動きに、勝家もついに戦う決心をします。

・勝家の滅亡は、日本の治まりの始まり

(「賤ケ岳の戦い」(wikimedia))

1583年2月末、雪解けのため、加賀の勝家軍が動き出し、賤ケ岳の戦いが始まります。

当時の領土を比べると、秀吉陣営が合計約150万石なのに対し、勝家陣営が合計約130万石と大差はありませんでした。しかし、秀吉の与党勢力が約270万~300万石と、勝家の与党勢力の約50~60万石とは比べものにならないほど大勢の武将たちを自陣営に引き込んでいました。

賤ケ岳の戦いは、秀吉軍4万に対して、勝家軍は2万ほどでした。兵力で優勢な秀吉は、見事な戦術で勝家軍を撃破します。(合戦の詳細は別の記事で紹介します。)

勝家は、賤ケ岳の戦いの残兵と共に、最後は北庄城に戻ると、一族と共に自刃します。

(「北庄城の柴田勝家」(wikimedia))

毛利家の小早川隆景宛の書状で、この勝利について、秀吉は「日本の治まりは、今この時である」と述べています。

その言葉のとおり、その後、秀吉が間違えれば滅亡するような戦いはありませんでした。その意味で、勝家は秀吉にとって最後の決戦相手だったのでしょう。

【コラム8】織田信秀 ~信長の模範者~

織田信長は偉大な2代目です。父の織田信秀は、まさに「尾張の実力者」と言われるだけあって、織田信長の模範として、大きな影響を与えた人物でした。今回は、その織田信秀の活躍ぶりに光を当てたいと思います。

織田家の経済基盤の確立

まず、織田信秀の祖父(織田信長の曽祖父)、織田良信(おだ すけのぶ)から話を始めます。

織田良信は、尾張南部に勢力のあった織田大和守の三奉行の一人でした。織田良信は、尾張でも西部に領地を持っていたのですが、同じく西部に土地を持っていた妙興寺から、幾つもの土地を横領していました。そして、その子の織田信貞、孫の織田信秀も同じように妙興寺から土地を横領し続け、経済力を確保していきました。

そして、(織田信秀の父にして、信長の祖父)織田信貞が尾張の最西端にある津島とその湊を獲得したことが、後の織田家の命運を開かせたと言えるでしょう。京から来る貴族や商人の多くが、毎回この津島湊を通過しており、まさに交通と流通の大動脈を抑えることになります。

織田信貞は、津島湊の北に勝幡(しょばた)城を築城します。勝幡城は、完全な平城で、防衛力よりも経済の中心地である津島を抑える拠点として機能していました。この町づくりの方法は、後の織田信秀と信長に引き継がれていきます。

(「勝幡城」(勝幡城推定復元模型、2022年6月26日、アセルス))(wikimedia)

次に織田信秀は、西から東へ、まさに絵を描くように尾張南部の領土支配を拡大していきます。そして、尾張東部の経済の中心地である熱田湊を獲得します。父織田信貞の勝幡城を参考にしたのか、信秀は、熱田湊の近くに古渡城を築城し、そこに拠点を移しています。同じく平城で、防衛力よりも経済力の要衝を掌握することを優先したものと言われています。

そして、これは後に信長の安土城築城にもつながるものと思われます。

・敗戦後の復活の速さ

尾張南部を、西から東へ領土を拡大した信秀は、そのまま突っ切って国境を越え、三河まで侵入し、安城(あんじょう)城を獲ると、三河ほぼ中央にある岡崎城を攻略して支配下に治めます。まさに実力者、信秀の最盛期とも言える時代です。

しかし、信秀は、その数年前に、2万5千の軍勢を率いて、美濃の斎藤道三の稲葉山城に攻め込んでいます(加納口の戦い/井ノ口の戦い)。稲葉山城の城下を放火して荒らしまわった織田軍が、夕方になって兵を退こうとしたとき、斎藤道三の軍勢が稲葉山城から一気に襲いかかると、織田軍は大きく崩されて大敗し、尾張に数人の家臣だけで帰国するほどの状態だったと言われています。

この大敗で弟、家老などの多くの家臣を失った信秀ですが、ちょうどその直後に京から尾張を訪れた連歌師に明るく振舞い、大いにもてなしてくれたと連歌師の日記に残っています。(ちなみにこの連歌師も津島を通って、尾張に来訪しています。)

そして、信秀は改めて体制を整えると、三河に攻め入り、上記の2城を占領し、信秀時代の最大領土を獲得しているため、信秀の復活の速さが伺えます。

さらに、その後に小豆坂(あずきざか)合戦があり、信秀は、今度は今川の名軍師である太原雪斎と戦い、ここでも苦戦を強いられています。その後、美濃の斎藤道三とは和睦し、三河方面の対今川との軍事活動は続いていきました。こうした流れを見ると、敗戦後の常に諦めない復活のスピードの速さが読み取れます。

(「織田信秀」(wikimedia))

これは後に、信長が義弟の浅井長政に裏切られ、窮地に陥いったときや、信長包囲網で身動きできない状況になったときに、同じように速いスピードで次の判断や行動に移っている点に受け継がれています。

・一度も籠城をしなかった信秀と信長

これは、谷口克広著の『天下人の父・織田信秀』(祥伝社新書、2017年発行)で知った話ですが、織田信秀も信長も、生涯を通じて、一度も籠城をしませんでした。これは、単なる偶然なのか、野戦のみしかしない信秀の戦い方を見て、信長もそれを真似たのかは分かりません。信長は、最後の本能寺の変が唯一の立てこもっての戦いとなりますが、本能寺は城とは言い難いので、含めないものとします。

その点を考えると、信長の後継者だった織田信忠は、最後に二条新御所(旧二条城)に籠城しているため、三代連続とはならなかったようです。

【コラム7】柴田勝家 その2:秀吉より速い「北陸大返し」

  • 津田信澄の死に烏帽子親なのに「祝着」と述べる勝家

題目でほぼ全てを書いてしまっていますが、勝家は、最初の主君である織田信勝が信長に殺害されると、信勝の子で、当時まだ赤ん坊だった津田信澄の烏帽子親を務めます。

時は流れ、1582年。27歳となった津田信澄は、織田家重臣たちと四国攻めの準備をしていました。ところが、重臣たちは、本能寺の変の急報を聞くと、謀反を起こした明智光秀の娘婿である津田信澄も謀反へ関与しているのではないかと疑い、すぐさま兵を差し向けて、津田信澄を殺害します。謀反に本当に関与していたかどうかの真相は分かっていません。しかし、勝家は、烏帽子親を務めた津田信澄の死について、書状に「祝着」と書き、祝勝しています。

勝家は、信澄がまだ赤ん坊の頃から烏帽子親を務めてきたにも関わらず、その死に際し、特に感情が入ることもなく、むしろ「祝着」と言えるところに、勝家の冷淡さが伺えます。

  • 秀吉を超える速度の「北陸大返し」

さて、一方、本能寺の変を迎えたときの勝家の動きです。その動きを比較するため、中国大返しで有名な羽柴秀吉の動きも一緒に追います。

6月2日 早朝、本能寺の変が起きる。(明智光秀が織田信長を京の本能寺にて殺害。)

6月3日 深夜又は4日早朝、羽柴秀吉が本能寺の変を知る。

6月6日 柴田勝家が本能寺の変を知り、加賀への帰国を開始する。(越中宮崎城内又は付近:京(山崎)から約330キロ)

  同日 午後2時頃、秀吉が移動を開始する。(備中高松城:京(山崎)から約210キロ)

6月7日 秀吉、姫路城へ到着。(姫路城:京(山崎)から約110キロ(※約100キロ/日を移動))

6月9日 勝家が加賀に到着。(北庄城:京(山崎)から約150キロ(※約180キロ/3日間を移動。つまり60キロ/日で移動))

6月13日 秀吉、山崎に到着。山崎の合戦。(※平均すると30キロ/日で移動)

6月16日 勝家はいまだ加賀に滞在。先陣として、養子の柴田勝豊を出発させようとしたところ、山崎の合戦の急報が届き、出発取り止め。

(山崎の戦い(尼崎大合戰武智主從討死之圖)(wikimedia))

上記の動きについて、秀吉と勝家の動きを比べると、秀吉は「中国大返し」と言われる所以のとおり、たしかに高松城付近から姫路城まで約100キロを1日のうちに移動したため、その点は当時の移動力としては驚異的でした。

ただ、軍勢を集める目的もあったと思われますが、道中、織田信孝・丹羽長秀・池田恒興等の軍勢と合流し、京の山崎の地に着いたとき、出発してから7日ほど経過しています。つまり、秀吉の中国大返しは全体で平均約30キロ/日の移動でした。

一方、勝家は越中の宮崎城付近から加賀の北庄城までの約180キロを3日間で踏破し、約60キロ/日と秀吉の倍の速度です。実際、その速度のまま京に進めば、計算上は3日で到着し、6月13日の山崎の戦いに参加することは可能だったことは、興味深い点です。

いずれにせよ、勝家は越中から加賀までの移動は、秀吉の平均移動実績以上の速さでした。これは勝家の「北陸大返し」とも言うべき移動と言えるでしょう。

勝家の命運を分けた賤ケ岳の戦いは、また分けてお話したいと思います。

【コラム6】柴田勝家 その1:猛将の由来と謀略

織田信長の家臣、柴田勝家の名前を聞くと、多くの人が織田家中で名声の高かった猛将というイメージが強いかと思います。今回は、その柴田勝家の実像に可能な限り迫ることができれば、と思います。

(柴田勝家(Portrait de Katsuie Shibata, commandant samouraï)(wikimedia))

  • 実父すら不確定な柴田勝家

柴田勝家は、織田家の中でも譜代の家系と言われながら、実父すら分かっていません。史料によって勝家の父親と思われる名前を記載しているものもありますが、いずれも信ぴょう性の疑われる史料であることから、一概には確定できません。

その一方、勝家の姉又は妹が、尾張の名家である佐久間氏に嫁いでいること、並びに与力の佐久間盛政が甥であることから、柴田氏は佐久間氏と婚姻関係を結ぶ相手であり、佐久間氏と同程度の家格だったことが分かります。(なお、祖先は詳細不明。)

尾張出身の勝家は、織田信秀が病死し、嫡男信長が家督を相続した際、信長の弟、信勝の家臣として登場します。その後、信長と信勝の兄弟対立が始まると、勝家は稲生の戦いで信長に敗れ、降伏します。その後は、信長の家臣として数々の戦場で活躍します。

  • 瓶割柴田/鬼柴田

勝家の勝家たる所以の話です。

1570年6月、織田家が金ヶ崎退口を経験した後の窮地に陥っていた時期、南近江に六角氏の軍勢が押し寄せ、勝家のいた長光寺城を包囲します。六角勢が長光寺城の水源を断つと、勝家軍は水が手に入らなくなります。ついに水は3つの瓶に残されたのみとなったとき、勝家は籠城兵の前にその瓶を出すと、目の前でそれらを3つとも割ってみせると、籠城兵と共に決死の出撃を敢行し、ついには六角軍の包囲を破り、退けたと言われています。

(瓶割柴田(Mizukame wo kudaite meiyo wo arawasu no zu 水瓶砕名誉顕圖 (Display of Honour, Breaking Water Jars))(wikimedia)© The Trustees of the British Museum, released as CC BY-NC-SA 4.0)

ただ、残念ながら、この話は後世の創作と言われ、史実ではないものと考えられます。

  • 柴田勝家の謀略(誘殺と虚報)

柴田勝家と言うと、猛将という印象が強く、あまり謀略などを行わなかったと思われがちですが、実際に記録として残されています。

時は1580年の加賀平定戦。勝家が加賀で一向宗の一揆勢との合戦を続けていた際、敵方の二曲(ふとうげ)城の若林長門守から、所領を安堵してもらえるなら忠節を誓うという書状を受け取ると、勝家は了承します。そして、勝家は、勝家の本陣に挨拶に来た若林長門守父子3人を、その場で騙し討ちにして討ち取ります。

さらに、別宮城の鈴木出羽守も、和睦後に、勝家は自陣営の城に鈴木父子を呼び寄せ、誘殺しています。

2年後の1582年は越中攻め。勝家の越中の魚津城攻めの最中に、「武田攻めをしていた織田信長・信忠父子がことごとく討ち死にした。」という報が周囲の国人衆に流れると、小島職鎮などの越中の国人衆が一気に、同国の富山城に殺到して占拠しました。すると、勝家率いる織田軍は、20km以上も離れた魚津城攻めをしていたにも関わらず、素早く移動して富山城に到着して取り囲みます。この迅速な動きに、越中国衆は何もできずに勝家軍に降伏します。武田攻めの最中に織田信長・信忠親子が討ち死にしたという虚報は、勝家が敢えて流し、当時不穏な動きのあった国衆をすぐに制裁できるように準備していたと言われています。

しかし、この富山城の1件は、勝家の与力の佐々成政も知らなかったことから味方をも騙した手段であったため、勝家と佐々成政は口論になり一触即発の事態になるものの、もう一人の与力の前田利家の仲介で何とか場は収まったようです。

英仏百年戦争物語 10:ポワティエの戦い

1356年9月、エドワード黒太子率いる6500のイングランド軍と、フランス王ジャン2世率いる1万8千のフランス軍は、ポワティエの南西に広がる草原で対峙していました。
イングランド軍は、ヌアイエの森に背を向けて、平原に大きく展開したフランス軍を見張っていました。

これが世に言う「ポワティエの戦い」です。

(ポワティエの戦い(Bataille de Poitier à Nouaillé-Maupertuis en 1356)(wikimedia))

両軍が対峙してから、エドワード黒太子は、「占領した全ての都市と城を返還して、捕虜も全員解放、さらに10万フランを支払うので、見逃してほしい。」とジャン2世に申し出ます。
しかし、ジャン2世の返答は、「エドワード黒太子と100人の騎士が降伏しなければダメだ。」というものでした。

さすがにエドワード黒太子がこれを受け入れられるわけもなく、交渉は決裂します。

この後、ジャン2世は、ポワティエの戦いを始まる前に致命的な失敗を犯します。
キリスト教と騎士道を重んじるフランス王は、日曜日を休日として、イングランド軍への開戦に踏み切らずに、猶予を与えてしまいます。

そして、この日にエドワード黒太子は、およそ3倍にあたる敵からの防御として、イングランド軍の前方にブドウの木で作った生垣と防護柵で固め、背後には堀を、右側面には略奪品や荷馬車、丸太で敵の攻撃を弱めるように、防御できうる限りの手を尽くします。
また、右側面に他に、修道院が建っていた事がエドワード黒太子には幸いだったのだと思います。そして、左側には湿地帯が広がっていました。

守りを固めたイングランド軍は、3部隊に分けて配置します。
第一陣は、ウォーウィック伯とサーフォーク伯。
第二陣は、エドワード黒太子。
第三陣は、ソールズベリー伯。

そして、イングランド軍の背後に広がる森に騎乗した騎士を茂みに伏兵として隠しました。

これに対して、フランス軍は、4部隊に分かれます。
第一陣 クレルモン将軍。
第二陣 シャルル王太子。
第三陣 オルレアン公。
第四陣 ジャン2世。

フランス軍も今回は、前回の経験を踏まえて、300名の騎士を除いて他は全員下馬して、戦闘に参加します。

1356年9月19日、イングランド軍の先鋒が襲い掛かる素振りをして、フランスの第一陣のクレルモン将軍を引き出して、開戦します。

フランス軍の唯一の騎乗したクレルモン将軍の騎兵隊がイングランド軍に襲い掛かりますが、生垣が上手く邪魔しててこずらせ、その間にクレシーの戦いでやってのけたように、長弓兵の矢を敵軍に降り注ぎます。

クレルモン将軍の騎兵隊は、イングランド軍の第一陣にたどり着くまでに、ほとんどの騎兵が大量の矢の前に屈して、戦場に倒れ、残りは撤退を余儀なくされます。
他に残っていた第一陣の石弓兵と槍兵(ドイツ傭兵)も、騎兵隊が敵を突破できずに矢を背に戻ってきた事で、一緒に撤退してしまいます。

そして、第二陣のシャルル王太子率いるフランスの騎士たちは、歩兵のままイングランド軍の築いた生垣を乗り越えて進軍しますが、これもまたたどり着くまでに、多くが無数の矢の前に膝を屈して戦場に屍をさらします。
このとき、シャルル王太子は、普段読書ばかりの生活でほとんど武術を心得ていないにも関わらず、一人で奮戦して、なんとか敵兵を退けていました。

しかし、フランス軍は、すでに第一陣・第二陣が崩れてしまっていたため、第三陣のオルレアン公は、戦わずして諦め、勝手に撤退を開始してしまいます。

これにより、最後に唯一残った大部隊を擁する第四陣のジャン2世の軍が、前進してイングランド軍に襲い掛かります。

ここで、クレシーの戦いではなかった事が起きます。
それは、長弓兵の規模が前回より小さかった事と、クレシーで矢に当たって暴れた馬が今回は居なかったことでした。(下馬していたため。)

そのため、ジャン2世の大軍は、イングランド軍を圧倒し始めます。イングランド軍は、出来うる限りの矢を放つのですが、大軍の前にイングランド軍は多くを倒せず、むしろ形勢は少しずつフランス軍に傾きつつありました。

しかし、ここでエドワード黒太子は、背後の森に隠していた騎兵部隊に突撃命令を出します。

この一手でこの戦闘に決着がつきました。

背後の森から飛び出したイングランド騎兵は、実は、フランスの南部を領するブーシュ伯ジャン・ドゥ・グライーのガスコーニュ騎兵でした。ガスコーニュ騎兵は、イングランド軍にかかりきりのフランス軍主力に襲い掛かります。

この予想外の騎兵の出現に、フランス軍は対処しきれず、イングランド騎兵に縦横無尽に崩され、ついに全軍が崩壊します。

(ポワティエの戦い((King John at the)Battle of Poitiers)(wikimedia))

しかし、ここでもジャン2世は、騎士道に忠実に逃げずに孤軍奮闘して留まります。これによって、フランス王とその側近たちは、イングランド軍に囲まれ、ついに降伏します。

ジャン2世は、こうしてイングランド軍の捕虜になります。
後にこのフランス王を解放してもらうために、フランスは多大な財政的負担を負うことになるのですが、ジャン2世は捕虜になる意味を知らずか、簡単に投降してしまいます。

逃げ延びた王太子シャルルは、このあとフランスの摂政として、多くの試練に立ち向かざるを得なくなるのですが、この試練が王太子シャルルの大切な人生経験になっていきました。

英仏百年戦争物語9:フランス王ジャン善良王と王太子シャルル

1350年、ジャンがフランス王位を継いで、ヴァロワ朝の2代目ジャン2世として即位します。

このジャン2世は、「ジャン善良王」という別称も持っていました。
そして、騎士道と武勇を好み、騎士の支配する中世ヨーロッパでは、典型的な封建制の君主でした。

(『ジャン2世(ジャン善良王)』(Jean II dFrance)(wikimedia))

しかし、このジャン2世は、少し楽観的過ぎるところがあり、危機感に欠けるところがあるのは、後の歴史が証明しています。

このジャン2世がフランス王位に就いたとき、息子のシャルルも12歳の少年として、次の王位継承者として、控えていました。
ただ、この王太子は、病弱であまり武術を好まず、読書ばかりの日々を送っていました。以前に一度、結核を患った事もあって、仮に体を鍛えたくても、鍛えられないのが本当の理由でした。
そして、本ばかり読んでいたシャルル王太子を人々は「学者殿下」と揶揄していたと言われています。

(『シャルル5世』(Dejuinne – Charles V of France)(wikimedia))

そんなフランス王と王太子親子の運命は、1354年4月に行われた英仏和平会談から少しずつ変化し始めます。

この和平会談で、イングランドのエドワード3世は、自分が継承しているプランタジネット王朝の権利として、プランタジネット朝初代ヘンリー2世が所有した広大な「アンジュー帝国」の領地、アキテーヌ、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を要求します。

※このアンジュー帝国は、12世紀に複数の政略結婚が重なった事によって、その幸運なる継承者、アンリ・ドゥ・プランタジュネに、フランスとイングランドを跨ぐ広大な領地をもたらして、形成されました。そして、このアンリ・ドゥ・プランタジュネがプランタジネット朝の創始者となり、ヘンリー2世と呼ばれています。

しかし、このような要求をフランス王ジャン2世が受ける事などできないのは、一目瞭然でした。交渉は決裂して、両国の動きは再び開戦へと向かい始めます。

1355年9月に、エドワード黒太子は、父である国王の命令を受けて、4500の兵を率いて、300隻の船に乗って、行動を開始します。

まず、フランスのボルドーで同盟軍と合流。冬が始まる前に6500になった兵力でもって「騎行」を開始します。
イギリスの表現では、エドワード黒太子を美化したかったのか、「騎行」と表現していますが、これは、よく調べてみると完全なる「略奪」行為です。後世に騎士道も交えて美化されるエドワード黒太子ですが、このとき彼は、途中のかなり多くの都市で、子供や女性を無差別に殺戮しています。

彼の殺戮と略奪は8週間続き、さすがに耐えかねたフランスの小領主がイングランド軍に反撃を試みるものの、あっけなく失敗してしまいます。

結局、エドワード黒太子は、5つの都市と7つの城を好き放題に荒らしつくして、帰途に着きました。

そして、翌年1356年6月、ランカスター公と合流すべく、再び遠征に出たエドワード黒太子の軍は、いよいよ本腰を入れて軍を召集したフランス軍に押し出されるようにして計画を阻止され、やむを得ず、ポワティエの南に広がる平原モーペルテュイに陣を構えます。

イングランド軍の総司令官は、エドワード黒太子。

フランス軍の総司令官は、フランス王ジャン2世。そして、そのフランス軍の中核には、王太子シャルルが司令官として参加していました。

英仏百年戦争物語8:優勢のイングランド軍

1. クレシーの戦い後のイングランド軍の勢い

クレシーの戦いの後から、イングランドとフランスの立場に大きな変化が訪れてきます。

今まで大国フランスに立ち向かう小国イングランドの戦いという様相が強かったのですが、このクレシーの戦いと次のポワティエの戦いの時期が転換期となり、常勝軍率いるイングランドに対するフランス軍の戦いに変わっていくからです。

つまり、時勢がイングランドに傾き、それを知りつつも、その困難をフランスがどう乗り越えるか、という点が歴史の境目になります。

クレシーの戦いの後、イングランド軍は、港町カレーを1347年までかけて陥落させ、さらにアキテーヌでも、順調に諸都市を手に入れ、更にブルターニュでは、敵の総大将ブロワ伯シャルルをラ・ロシュ・デリアンの戦いで捕虜にして、フランスの各地をイングランド陣営の占領下にします。

2. ネヴィルズ・クロスの戦い

スコットランドでも、イングランド軍は決定的な勝利を収めます。

数知れない反乱で、デイビッド2世はベイリアルを完全に操り、ベイリアルも初期の戦闘の冴えが見られずに、スコットランド軍の前に後退を余儀なくされてしまっていました。
そして、1467年10月17日、ネヴィルズ・クロスの戦いで、8000のイングランド軍は、1万人のスコットランド人と死闘を繰り広げます。

さすがにスコットランド軍は、イングランド軍の弓の威力をすでに研究済みで、逆にスコットランド軍歩兵の絶え間ない猛攻の前にイングランド軍は幾度も混乱に陥るものの、その度に立て直します。
そして、ただひたすら防御に回ったにも関わらず、スコットランド軍が多くの武将を戦場で失い、ついに士気の低かったスコットランド民兵が逃げ出したのを契機に、スコットランド軍の攻撃は失敗に終わり、多くの死体を残して敗退します。
そして、スコットランド王を称して、イングランドに反抗し続けた総大将デイビッド2世は、ついにイングランド軍に捕縛され、勝敗がつきました。

このとき、イングランド軍の中でもベイリアルの利用価値はすでになくなっていて、彼は、形式的にもスコットランド領を持つ事になりますが、やがて引退して形式的な権限もイングランドに全て譲り渡し、イングランドからお金を貰いながら、隠居生活をしたといわれています。

エドワード・ベイリアルは、結婚していなかったため、子供もなく、静かにその生涯を閉じたといわれています。そして、彼の死と共にベイリアル家は断絶します。

3. 英仏で時代の転換期

さて、どちらにしろ、これでイングランドのエドワード3世は、大陸でも、北のスコットランドでも勝利を得て、イングランドの春を謳歌します。

その後、小競り合いが続くのですが、1350年頃には数年前から続いていた「黒死病」(ペスト)が更に流行して、人口が一気に減少してしまいます。

1350年8月26日、フランス王フィリップ6世は、この世を去ります。
これによって、ヴァロワ朝の初代から2代目ジャン2世の時代に変わります。

そのため、しばらくは小競り合いのみが続き、ようやく次の歴史の歯車が動き出すのは、1354年4月のアヴィニョンの英仏和平会談でした

英仏百年戦争物語7:クレシーの戦い

1. 決戦のイングランド陣営

1346年8月26日、エドワード3世とエドワード黒太子の軍は、フランスはクレシーの郊外に展開し、フィリップ6世の率いるフランス軍と初めて対峙します。

イングランド軍の前衛は、エドワード黒太子の4500の右翼と、ノーサンプトン伯の4000余の左翼でした。そして、後衛中央に、エドワード3世が3000以上の兵力で陣を構えたとされています。
イングランド軍は合計およそ1万2千に達していたのですが、そのうち6千が弓兵で、他は騎士と槍兵で構成されていました。

また、陣形としては、黒太子とノーサンプトン伯の2隊が後衛を隠すように守っていたと言われますが、本などでは、エドワード3世が中央前面に出ていたとも言われていて、史料によって異なります。

エドワード3世は、弱冠16歳の若きエドワード黒太子を補佐するため、有能な家臣を数人、王太子につけています。

その中でも、戦術面を実質的にエドワード黒太子を補佐したのが、ジョン・チャンドスでした。彼は、当時珍しく、貴族の出身ではなかったのにも関わらず、エドワード3世配下の騎士として手勢を率いて、戦争に参加していました。ジョン・チャンドスは黒太子の親友かつ、戦場の経験を積んだ軍人として、若き黒太子をサポートしていました。

2. フランス軍の陣営

一方、フランス軍陣営は、名だたる諸侯が揃っていました。
フランス国内から、当時の家格では最高格の領主が参加していました。(ブロワ伯、アランソン伯、オーセール伯、サンセール伯、アラクール伯、フランドル伯、国外からは、ボヘミア王、マジョルカ王、モラヴィア侯、ロレーヌ公など)
その数は4万と、イングランド軍を圧倒する兵力で、戦場に展開していました。

両軍ともかなり高い比率で騎士が参加していたのですが、英仏間の一番の大きな違いは、イングランド軍は騎士が馬から下りて防衛線を築いていたことでした。
当時の騎士が戦場の主役だった時代にこの選択は、一見不可解なものだったのでは、と思われます。
一方フランス軍は、騎士は従来通り、馬に乗ったままその突進力で攻撃をかけるという方法で戦いに臨みました。

3. 決戦

そして、フランス軍のジェノバ傭兵が前進して、弓を射掛ける事で、戦闘が開始します。

このとき、イングランド軍に比べて矢の飛距離の短いジェノバ傭兵は、矢が届かないので前進したのですが、その間に次々に放つ矢が大きな犠牲を出して、ジェノバ傭兵部隊を撤退させたといわれています。
飛距離も発射間隔も、イングランド軍の弓兵は、スコットランド遠征の経験から、フランス軍に対して、圧倒的に有利な攻撃を繰り返しました。

※ただ、一部のイギリスの学者の説では、このとき雨が降っていたにも関わらず、ジェノバ傭兵が弓を引き絞ったまま待機していたので、一気に弦が悪くなってしまい、逆に弦をゆるめていたイングランド軍の弓兵は、本来の飛距離を出せたのだとも言われています。

そして、このジェノバ傭兵の撤退に憤ったフランス軍は、フィリップ6世の制止も聞かずに、隊形がバラバラのまま、イングランド軍に突撃を開始してしまいます。
イングランド軍の騎士は、面目を気にせずに、下馬して敵の攻撃を陣形を堅く守って撃退させ、弓兵は、ただひたすら敵軍に矢を射続けます。

フランス軍は、重厚な装備の騎士に、その騎士を乗せていた馬も厚い鎧を着せられていたので、速度としては、かなり遅いもので、突撃力に欠け、隊列も乱れていたので、効果的な攻撃をできませんでした。そして、フランス軍の騎士の多くは、絶えずに降ってくる矢に負傷して、戦場を離脱していくしかありませんでした。

4. フランス軍の崩壊

完全に大混乱に陥ったフランス軍に対して、イングランド軍は、乗馬した騎士に攻撃を開始させます。この攻撃が最後の決定打になり、フランスの撤退が始まりました。

フランス王フィリップ6世は、負傷しながらわずか60名の部下と供に逃げ、他の多くの諸侯が戦死しました。
主な戦死者は、アランソン公、ボヘミア王、フランドル伯、ロレーヌ公と名だたる貴族が多く、クレシーの地で命を落としました。

そして、この戦いから、歴史は大きな変化を迎えることになります。

英仏百年戦争物語6:女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドル

ブルターニュ継承戦争についてのお話です。

1. ブルターニュ継承戦争の序盤

1341年の4月30日にブルターニュ公ジャン3世が死去してから、およそ2ヶ月のうちに、後継者の一人であるモンフォール伯は、ブルターニュ領のほとんどの領地を支配下に治めます。

モンフォール伯がブルターニュの主邑都市ナントを手に入れたとき、領民はモンフォール伯に喝采を浴びせて迎えたといわれています。

しかし、フランス王の甥であり、ブルターニュ領のもう一人の継承者であるジャンヌと結婚したシャルルは、フランスの大軍でもって、ナントに攻め入り、あっけなくモンフォール伯を捕虜にしてしまいます。

これによって、戦争は終わったかに見えましたが、これで終わらせなかった人物が二人います。

2. 女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドルの奮戦

一人は、モンフォール伯の妻、ジャンヌ・ドゥ・フランドルでした。このジャンヌは、「獅子心」を持つ、女傑といわれ、この継承戦争を実質的に継続させた指導者でした。
百年戦争のジャンヌといえば、ジャンヌ・ダルクの知名度が高いですが、このジャンヌ・ドゥ・フランドルもまた、徹底抗戦で敵を恐れさせた優秀な指導者と言えます。

そして、もう一人が、エドワード3世です。彼は援軍を送り、ブルターニュの地でフランス軍と激戦を繰り広げながら、ジャンヌを助け、戦争を続けました。

ジャンヌは、夫のモンフォール伯がいなくなった後も、息子のジャンを守るため、エンヌボン城に立てこもり続けました。そして、城に一緒に籠もっていた女たちに、「スカートを切り、自らの身を自らの手で守るのです。」と呼びかけ、自分は城主として、武装して指揮を執り続けました。
そして、ジャンヌは敵の隙をつき、配下の騎士を率いて城外に飛び出し、敵の後方の陣営を破壊するなど大胆な行動にも出ています。

3. イングランド軍率いるウォルター・マーニー

この鬼神の働きをするジャンヌを助けるため、エドワード3世は配下の中でも優秀なウォルター・マーニーに、340の兵を授けて、援軍に向かわせます。
このウォルター・マーニーは、到着すると直ぐに、フランス軍に夜襲をかけて戦力を削いで、その後の戦いでも勝利を続けるなど、予想以上の活躍をします。

この報を聞くと、イングランド本国は沸き立ちます。
実は、失地王ジョンの世代から、エドワード1世、エドワード2世と3代にわたって、フランスへの陸戦では敗北ばかり経験していたからです。

ちなみに、このウォルター・マーニーは、21歳のときに、エドワード3世の妻、フィリッパの供として連れてこられたのが、始まりでした。小領主の末っ子の生まれで、決していい境遇で育ったとは言えないこの青年は、エドワード3世とフィリッパに気に入られて、準騎士、騎士と出世して、スコットランドとのダプリン・ムーアの戦い、ギャドザントの戦いで活躍して、この遠征司令官への抜擢を受けた人で、まさに這い上がってきた武将といえます。

4. 1343年の休戦と戦争の再開

このウォルター・マーニーと、ジャンヌ・ドゥ・フランドルの活躍で、イングランド陣営はこのブルターニュ継承戦争を有利に進めて、後にエドワード3世自身も大軍を率いて参戦しています。ちなみに、このイングランド国王の留守の際に、エドワード黒太子が弱冠12歳ながら、政治を行っています。
そして、1343年に教皇の仲介により、休戦協定が結ばれ、1346年には戦闘はなくなりました。

しかし、エドワード3世は1346年7月、再び軍を起こして、息子のエドワード黒太子と共に、ブルターニュ継承戦争で得た足場からフランスとの戦いに踏み切ります。
数々の町や都市を行軍して、エドワード3世と黒太子の軍は、クレシーの郊外で、フィリップ6世率いるフランス軍と対峙します。

【コラム5】織田信忠 ~織田家最強の10年を生きた男~

戦国時代の織田信長の嫡男、織田信忠というと、父織田信長や他の織田家の武将たちに比べ、ややインパクトに欠ける印象が残っています。信忠は、16歳の初陣から26歳で本能寺の変により自刃するまでの10年間、どのように生きたのでしょうか。

今回は、可能な範囲で信長と切り離し、信忠個人の功績と言えるものを挙げてみたいと思います。

  • 静かな初陣

織田信忠(幼名:奇妙丸)は、1557年に生まれます。生母は諸説ありますが、生駒氏出身の吉乃(きつの)が有力と言われています。そして、信忠は、父信長の正室濃姫の養子になったとも言われています。

1572年、信忠は16歳で初陣を迎えます。織田家は、まさに信長包囲網の時期でした。織田軍は、2年前には姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、1年前は浅井・朝倉連合軍を支援した比叡山延暦寺の焼き討ちをしており、予断を許さない状況でした。

信忠の初陣の相手は、近江の浅井長政の家臣阿閉貞征(あつじ さだゆき)です。信長から、その居城である山本山城攻略を命じられ、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉など、織田家の有力武将たちを率いて同城を攻めたて、敵兵50名以上を討ち取る成果を上げます。

名だたる織田家の武将たちのも支援もあり、信忠の初陣は大過なく終わります。

  • 合戦の日々(長島一向一揆、長篠の合戦、岩村城攻め、そして雑賀攻め)

初陣後、信忠は織田家の合戦に次々に駆り出されます。

1574年の長島一向一揆では、織田軍が東方面・西方面・中央の三手に分かれて出陣した際、信忠は東方面の大将を務めており、1575年の長篠の合戦では、信長と一緒に出陣し、その歴史的合戦を目の当たりにしています。そして、長篠の合戦の直後、信忠は、単独で美濃は岩村城の秋山虎繁を攻め、この歴戦の武将をおよそ4か月の籠城戦の末、ようやく捕縛の上、磔にしています。この功をもって、19歳になった信忠は、朝廷から秋田城介(あいたじょうのすけ)の官位を贈られ、また父信長からは、早くも家督を譲られます。

織田信長は、1577年2月、雑賀攻めを行います。このとき、織田軍の先陣だった明智光秀や細川藤孝が、敵の雑賀衆(鈴木孫一など)の攻勢にあって苦戦を強いられていたとき、信忠は一門衆の手勢を率いて先陣を救援し、活躍します。その後、信忠が雑賀衆の降伏した城を受け取り、成果をあげています。

  • 信忠を信頼する信長

そして、転機となったのは1577年の松永久秀の謀反の鎮圧でした。

同年9月、謀反を起こした松永久秀の立てこもる信貴山城攻めでは、信忠が総大将となります。当初は、信長は松永久秀という人材を惜しみ、1か月ほどは交渉しての説得を試みますが、効果がないため、諦めて城攻めを決意したと言われています。9月28日、信忠は、信長の命を受けて、織田軍を率い、松永久秀側の片岡城の攻撃開始します。その後、信忠は、わずか2週間ほどたった10月10日、松永久秀居城の信貴山の落城まで成し遂げています。(これは激戦となった片岡城攻めで、明智光秀と細川忠興・興元兄弟の奮迅の働きにより、一気に織田軍の攻略が進んだとも言われています。)

いずれにしても、信長は、信忠が総大将として松永久秀の謀反をわずか2週間という短期間で鎮圧した功績を高く評価し、以後、信長は大軍を指揮する機会は大きく減り、それに代わり、信忠の活躍が飛躍的に多くなっていきます。これは、事実上の家督相続がようやく始まったと言えるでしょう。

  • 武田家をわずか1か月で滅ぼした信忠

信忠は、その後も本願寺攻めや播磨遠征などで功績を残し、1582年2月、次は甲斐の武田攻めの総大将となります。相手は、長篠の合戦や高天神城落城で勢力を落としたとは言え、戦国時代を代表する甲斐の武田氏の存在感は非常に大きいものでした。

2月1日、武田家の当主、武田勝頼の妹婿木曽義昌が内通してきたとの一報が信忠の下に入ります。すぐに安土城の信長に知らせると、信長の対応は早く、各地域から甲斐への侵攻が開始されます。

駿河から徳川家康が、関東から北条氏政が、飛騨から金森長近が、そして、伊那から織田信長と信忠親子が、それぞれ侵攻の手はずを進めます。

2月12日、信忠は、有力家臣の川尻秀隆や滝川一益などを率いて、岐阜城から出陣します。

ところが、木曽義昌だけでなく、穴山梅雪や武田信兼などの武田家重鎮と言われた親族まで次々に武田勝頼から離反してしまいます。そして雪崩を打って武田家臣が離反していく中、唯一織田軍に立ちはだかった武将が、高遠城の仁科盛信でした。

信忠が、高遠城の仁科盛信に降伏勧告を行ったところ、「早々に攻城されよ。」と返答があります。そして、3月2日、信忠は高遠城の総攻めを開始します。信忠は、高遠城の堀際まで進み、自ら武器を取って前線に立って指揮したことから、織田家の将兵は奮起して、一気に織田軍は城内に侵入し、高遠城は落城します。

そして、ついに3月11日、追い詰められた武田勝頼・信勝親子は天目山で自害し、武田家は滅びます。そのとき、信長は、まだ美濃の岩村城に到着したところでした。

信忠が出陣からわずか1か月ほどで武田家を滅ぼしたという事実に、信長も衝撃を受けます。当初信長は、あまりの進撃の速さに、信忠や信忠の家臣たちに深入りしないように連絡をしますが、信忠には聞き入れられませんでした。むしろ、信忠率いる織田軍は、間髪入れずに一気に攻め込んだことで、武田軍に立て直す余裕を与えず、わずか1か月でほどで武田家を滅亡まで追い込みました。

父信長は、当初その行動に否定的でしたが、続報が届くにつれて状況が分かると、信忠を激賞し、信忠と共に攻め込んだ家臣たちの功も労います。

  • 二条新御所(旧二条城)での自刃

武田家を滅ぼした約3か月後、信忠は、今度は自分が攻め滅ぼされる側になります。

同年(1582年)6月2日、家臣の明智光秀が、1万数千の軍勢をもって京の本能寺に宿泊中の信長を襲撃し、殺害します。その報を聞いたとき、信忠は本能寺の北東約1kmにある妙覚寺という寺に宿泊中でした。

信忠はすぐに手勢5百程を率いて、本能寺に駆け付けようとしますが、道中で家臣の村井貞勝に会い、すでに本能寺は焼け落ち、信長の運命が絶望的な状況であることを知ります。

このときの状況について、多くの歴史家は、信忠が信長の死を確認した時点で、必死に逃げ延び、本拠地とする美濃や尾張に戻って体制を整えれば、反撃の機会があったという指摘をしています。たしかに明智軍は本能寺にいる信長を確実に殺害するのに専念しており、他の京の地を掌握していなかったと言われています。実際に信忠と一緒にいた前田玄以は嫡男三法師(後の織田秀信)を連れて脱出に成功しており、他にも叔父の織田有楽斎も京からの逃亡に成功しています。

しかし、信忠はすでに京の四方を明智勢に囲まれているものと考え、雑兵に討ち取られるなら、と宿泊していた妙覚寺の東隣の二条新御所(旧二条城)での籠城を決意します。二条新御所は、以前に織田家から誠仁親王一家に譲ったものでしたが、誠仁親王一家には別邸に移ってもらい、信忠はそこに籠城します。

二条新御所には、信長の馬廻衆1千ほどの軍勢も駆け付け、明智勢との戦端が開かれます。1千5百ほどの信忠軍は非常に戦意が高く、1万数千の明智軍との間で一進一退の攻防を繰り広げます。

しかし、明智軍が二条新御所に隣接する近衛前久の屋敷から矢や鉄砲で攻撃を始めると徐々に信忠軍は劣勢に転じます。そして、二条新御所の敷地内に明智軍が侵入すると、信忠の軍勢もついに敗れ去ります。

ただ、父信長と同じく、その遺骸は発見されず、今日に至るまで不明のままです。

1572年に初陣を果たした信忠は、信長包囲網の時期から織田家の覇権が確立されていくまでを経験し、武田氏滅亡の1582年まで、いわゆる「織田家最強の10年間」を生きた男と言えるでしょう。

信忠は、父信長の名声により、なかなか脚光を浴びないことが多いですが、多くの難関を乗り越えた戦国武将の一人として、今回、光を当ててみました。