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【コラム6】柴田勝家 その1:猛将の由来と謀略

織田信長の家臣、柴田勝家の名前を聞くと、多くの人が織田家中で名声の高かった猛将というイメージが強いかと思います。今回は、その柴田勝家の実像に可能な限り迫ることができれば、と思います。

(柴田勝家(Portrait de Katsuie Shibata, commandant samouraï)(wikimedia))

  • 実父すら不確定な柴田勝家

柴田勝家は、織田家の中でも譜代の家系と言われながら、実父すら分かっていません。史料によって勝家の父親と思われる名前を記載しているものもありますが、いずれも信ぴょう性の疑われる史料であることから、一概には確定できません。

その一方、勝家の姉又は妹が、尾張の名家である佐久間氏に嫁いでいること、並びに与力の佐久間盛政が甥であることから、柴田氏は佐久間氏と婚姻関係を結ぶ相手であり、佐久間氏と同程度の家格だったことが分かります。(なお、祖先は詳細不明。)

尾張出身の勝家は、織田信秀が病死し、嫡男信長が家督を相続した際、信長の弟、信勝の家臣として登場します。その後、信長と信勝の兄弟対立が始まると、勝家は稲生の戦いで信長に敗れ、降伏します。その後は、信長の家臣として数々の戦場で活躍します。

  • 瓶割柴田/鬼柴田

勝家の勝家たる所以の話です。

1570年6月、織田家が金ヶ崎退口を経験した後の窮地に陥っていた時期、南近江に六角氏の軍勢が押し寄せ、勝家のいた長光寺城を包囲します。六角勢が長光寺城の水源を断つと、勝家軍は水が手に入らなくなります。ついに水は3つの瓶に残されたのみとなったとき、勝家は籠城兵の前にその瓶を出すと、目の前でそれらを3つとも割ってみせると、籠城兵と共に決死の出撃を敢行し、ついには六角軍の包囲を破り、退けたと言われています。

(瓶割柴田(Mizukame wo kudaite meiyo wo arawasu no zu 水瓶砕名誉顕圖 (Display of Honour, Breaking Water Jars))(wikimedia)© The Trustees of the British Museum, released as CC BY-NC-SA 4.0)

ただ、残念ながら、この話は後世の創作と言われ、史実ではないものと考えられます。

  • 柴田勝家の謀略(誘殺と虚報)

柴田勝家と言うと、猛将という印象が強く、あまり謀略などを行わなかったと思われがちですが、実際に記録として残されています。

時は1580年の加賀平定戦。勝家が加賀で一向宗の一揆勢との合戦を続けていた際、敵方の二曲(ふとうげ)城の若林長門守から、所領を安堵してもらえるなら忠節を誓うという書状を受け取ると、勝家は了承します。そして、勝家は、勝家の本陣に挨拶に来た若林長門守父子3人を、その場で騙し討ちにして討ち取ります。

さらに、別宮城の鈴木出羽守も、和睦後に、勝家は自陣営の城に鈴木父子を呼び寄せ、誘殺しています。

2年後の1582年は越中攻め。勝家の越中の魚津城攻めの最中に、「武田攻めをしていた織田信長・信忠父子がことごとく討ち死にした。」という報が周囲の国人衆に流れると、小島職鎮などの越中の国人衆が一気に、同国の富山城に殺到して占拠しました。すると、勝家率いる織田軍は、20km以上も離れた魚津城攻めをしていたにも関わらず、素早く移動して富山城に到着して取り囲みます。この迅速な動きに、越中国衆は何もできずに勝家軍に降伏します。武田攻めの最中に織田信長・信忠親子が討ち死にしたという虚報は、勝家が敢えて流し、当時不穏な動きのあった国衆をすぐに制裁できるように準備していたと言われています。

しかし、この富山城の1件は、勝家の与力の佐々成政も知らなかったことから味方をも騙した手段であったため、勝家と佐々成政は口論になり一触即発の事態になるものの、もう一人の与力の前田利家の仲介で何とか場は収まったようです。