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【コラム8】織田信秀 ~信長の模範者~

織田信長は偉大な2代目です。父の織田信秀は、まさに「尾張の実力者」と言われるだけあって、織田信長の模範として、大きな影響を与えた人物でした。今回は、その織田信秀の活躍ぶりに光を当てたいと思います。

織田家の経済基盤の確立

まず、織田信秀の祖父(織田信長の曽祖父)、織田良信(おだ すけのぶ)から話を始めます。

織田良信は、尾張南部に勢力のあった織田大和守の三奉行の一人でした。織田良信は、尾張でも西部に領地を持っていたのですが、同じく西部に土地を持っていた妙興寺から、幾つもの土地を横領していました。そして、その子の織田信貞、孫の織田信秀も同じように妙興寺から土地を横領し続け、経済力を確保していきました。

そして、(織田信秀の父にして、信長の祖父)織田信貞が尾張の最西端にある津島とその湊を獲得したことが、後の織田家の命運を開かせたと言えるでしょう。京から来る貴族や商人の多くが、毎回この津島湊を通過しており、まさに交通と流通の大動脈を抑えることになります。

織田信貞は、津島湊の北に勝幡(しょばた)城を築城します。勝幡城は、完全な平城で、防衛力よりも経済の中心地である津島を抑える拠点として機能していました。この町づくりの方法は、後の織田信秀と信長に引き継がれていきます。

(「勝幡城」(勝幡城推定復元模型、2022年6月26日、アセルス))(wikimedia)

次に織田信秀は、西から東へ、まさに絵を描くように尾張南部の領土支配を拡大していきます。そして、尾張東部の経済の中心地である熱田湊を獲得します。父織田信貞の勝幡城を参考にしたのか、信秀は、熱田湊の近くに古渡城を築城し、そこに拠点を移しています。同じく平城で、防衛力よりも経済力の要衝を掌握することを優先したものと言われています。

そして、これは後に信長の安土城築城にもつながるものと思われます。

・敗戦後の復活の速さ

尾張南部を、西から東へ領土を拡大した信秀は、そのまま突っ切って国境を越え、三河まで侵入し、安城(あんじょう)城を獲ると、三河ほぼ中央にある岡崎城を攻略して支配下に治めます。まさに実力者、信秀の最盛期とも言える時代です。

しかし、信秀は、その数年前に、2万5千の軍勢を率いて、美濃の斎藤道三の稲葉山城に攻め込んでいます(加納口の戦い/井ノ口の戦い)。稲葉山城の城下を放火して荒らしまわった織田軍が、夕方になって兵を退こうとしたとき、斎藤道三の軍勢が稲葉山城から一気に襲いかかると、織田軍は大きく崩されて大敗し、尾張に数人の家臣だけで帰国するほどの状態だったと言われています。

この大敗で弟、家老などの多くの家臣を失った信秀ですが、ちょうどその直後に京から尾張を訪れた連歌師に明るく振舞い、大いにもてなしてくれたと連歌師の日記に残っています。(ちなみにこの連歌師も津島を通って、尾張に来訪しています。)

そして、信秀は改めて体制を整えると、三河に攻め入り、上記の2城を占領し、信秀時代の最大領土を獲得しているため、信秀の復活の速さが伺えます。

さらに、その後に小豆坂(あずきざか)合戦があり、信秀は、今度は今川の名軍師である太原雪斎と戦い、ここでも苦戦を強いられています。その後、美濃の斎藤道三とは和睦し、三河方面の対今川との軍事活動は続いていきました。こうした流れを見ると、敗戦後の常に諦めない復活のスピードの速さが読み取れます。

(「織田信秀」(wikimedia))

これは後に、信長が義弟の浅井長政に裏切られ、窮地に陥いったときや、信長包囲網で身動きできない状況になったときに、同じように速いスピードで次の判断や行動に移っている点に受け継がれています。

・一度も籠城をしなかった信秀と信長

これは、谷口克広著の『天下人の父・織田信秀』(祥伝社新書、2017年発行)で知った話ですが、織田信秀も信長も、生涯を通じて、一度も籠城をしませんでした。これは、単なる偶然なのか、野戦のみしかしない信秀の戦い方を見て、信長もそれを真似たのかは分かりません。信長は、最後の本能寺の変が唯一の立てこもっての戦いとなりますが、本能寺は城とは言い難いので、含めないものとします。

その点を考えると、信長の後継者だった織田信忠は、最後に二条新御所(旧二条城)に籠城しているため、三代連続とはならなかったようです。

【コラム5】織田信忠 ~織田家最強の10年を生きた男~

戦国時代の織田信長の嫡男、織田信忠というと、父織田信長や他の織田家の武将たちに比べ、ややインパクトに欠ける印象が残っています。信忠は、16歳の初陣から26歳で本能寺の変により自刃するまでの10年間、どのように生きたのでしょうか。

今回は、可能な範囲で信長と切り離し、信忠個人の功績と言えるものを挙げてみたいと思います。

  • 静かな初陣

織田信忠(幼名:奇妙丸)は、1557年に生まれます。生母は諸説ありますが、生駒氏出身の吉乃(きつの)が有力と言われています。そして、信忠は、父信長の正室濃姫の養子になったとも言われています。

1572年、信忠は16歳で初陣を迎えます。織田家は、まさに信長包囲網の時期でした。織田軍は、2年前には姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、1年前は浅井・朝倉連合軍を支援した比叡山延暦寺の焼き討ちをしており、予断を許さない状況でした。

信忠の初陣の相手は、近江の浅井長政の家臣阿閉貞征(あつじ さだゆき)です。信長から、その居城である山本山城攻略を命じられ、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉など、織田家の有力武将たちを率いて同城を攻めたて、敵兵50名以上を討ち取る成果を上げます。

名だたる織田家の武将たちのも支援もあり、信忠の初陣は大過なく終わります。

  • 合戦の日々(長島一向一揆、長篠の合戦、岩村城攻め、そして雑賀攻め)

初陣後、信忠は織田家の合戦に次々に駆り出されます。

1574年の長島一向一揆では、織田軍が東方面・西方面・中央の三手に分かれて出陣した際、信忠は東方面の大将を務めており、1575年の長篠の合戦では、信長と一緒に出陣し、その歴史的合戦を目の当たりにしています。そして、長篠の合戦の直後、信忠は、単独で美濃は岩村城の秋山虎繁を攻め、この歴戦の武将をおよそ4か月の籠城戦の末、ようやく捕縛の上、磔にしています。この功をもって、19歳になった信忠は、朝廷から秋田城介(あいたじょうのすけ)の官位を贈られ、また父信長からは、早くも家督を譲られます。

織田信長は、1577年2月、雑賀攻めを行います。このとき、織田軍の先陣だった明智光秀や細川藤孝が、敵の雑賀衆(鈴木孫一など)の攻勢にあって苦戦を強いられていたとき、信忠は一門衆の手勢を率いて先陣を救援し、活躍します。その後、信忠が雑賀衆の降伏した城を受け取り、成果をあげています。

  • 信忠を信頼する信長

そして、転機となったのは1577年の松永久秀の謀反の鎮圧でした。

同年9月、謀反を起こした松永久秀の立てこもる信貴山城攻めでは、信忠が総大将となります。当初は、信長は松永久秀という人材を惜しみ、1か月ほどは交渉しての説得を試みますが、効果がないため、諦めて城攻めを決意したと言われています。9月28日、信忠は、信長の命を受けて、織田軍を率い、松永久秀側の片岡城の攻撃開始します。その後、信忠は、わずか2週間ほどたった10月10日、松永久秀居城の信貴山の落城まで成し遂げています。(これは激戦となった片岡城攻めで、明智光秀と細川忠興・興元兄弟の奮迅の働きにより、一気に織田軍の攻略が進んだとも言われています。)

いずれにしても、信長は、信忠が総大将として松永久秀の謀反をわずか2週間という短期間で鎮圧した功績を高く評価し、以後、信長は大軍を指揮する機会は大きく減り、それに代わり、信忠の活躍が飛躍的に多くなっていきます。これは、事実上の家督相続がようやく始まったと言えるでしょう。

  • 武田家をわずか1か月で滅ぼした信忠

信忠は、その後も本願寺攻めや播磨遠征などで功績を残し、1582年2月、次は甲斐の武田攻めの総大将となります。相手は、長篠の合戦や高天神城落城で勢力を落としたとは言え、戦国時代を代表する甲斐の武田氏の存在感は非常に大きいものでした。

2月1日、武田家の当主、武田勝頼の妹婿木曽義昌が内通してきたとの一報が信忠の下に入ります。すぐに安土城の信長に知らせると、信長の対応は早く、各地域から甲斐への侵攻が開始されます。

駿河から徳川家康が、関東から北条氏政が、飛騨から金森長近が、そして、伊那から織田信長と信忠親子が、それぞれ侵攻の手はずを進めます。

2月12日、信忠は、有力家臣の川尻秀隆や滝川一益などを率いて、岐阜城から出陣します。

ところが、木曽義昌だけでなく、穴山梅雪や武田信兼などの武田家重鎮と言われた親族まで次々に武田勝頼から離反してしまいます。そして雪崩を打って武田家臣が離反していく中、唯一織田軍に立ちはだかった武将が、高遠城の仁科盛信でした。

信忠が、高遠城の仁科盛信に降伏勧告を行ったところ、「早々に攻城されよ。」と返答があります。そして、3月2日、信忠は高遠城の総攻めを開始します。信忠は、高遠城の堀際まで進み、自ら武器を取って前線に立って指揮したことから、織田家の将兵は奮起して、一気に織田軍は城内に侵入し、高遠城は落城します。

そして、ついに3月11日、追い詰められた武田勝頼・信勝親子は天目山で自害し、武田家は滅びます。そのとき、信長は、まだ美濃の岩村城に到着したところでした。

信忠が出陣からわずか1か月ほどで武田家を滅ぼしたという事実に、信長も衝撃を受けます。当初信長は、あまりの進撃の速さに、信忠や信忠の家臣たちに深入りしないように連絡をしますが、信忠には聞き入れられませんでした。むしろ、信忠率いる織田軍は、間髪入れずに一気に攻め込んだことで、武田軍に立て直す余裕を与えず、わずか1か月でほどで武田家を滅亡まで追い込みました。

父信長は、当初その行動に否定的でしたが、続報が届くにつれて状況が分かると、信忠を激賞し、信忠と共に攻め込んだ家臣たちの功も労います。

  • 二条新御所(旧二条城)での自刃

武田家を滅ぼした約3か月後、信忠は、今度は自分が攻め滅ぼされる側になります。

同年(1582年)6月2日、家臣の明智光秀が、1万数千の軍勢をもって京の本能寺に宿泊中の信長を襲撃し、殺害します。その報を聞いたとき、信忠は本能寺の北東約1kmにある妙覚寺という寺に宿泊中でした。

信忠はすぐに手勢5百程を率いて、本能寺に駆け付けようとしますが、道中で家臣の村井貞勝に会い、すでに本能寺は焼け落ち、信長の運命が絶望的な状況であることを知ります。

このときの状況について、多くの歴史家は、信忠が信長の死を確認した時点で、必死に逃げ延び、本拠地とする美濃や尾張に戻って体制を整えれば、反撃の機会があったという指摘をしています。たしかに明智軍は本能寺にいる信長を確実に殺害するのに専念しており、他の京の地を掌握していなかったと言われています。実際に信忠と一緒にいた前田玄以は嫡男三法師(後の織田秀信)を連れて脱出に成功しており、他にも叔父の織田有楽斎も京からの逃亡に成功しています。

しかし、信忠はすでに京の四方を明智勢に囲まれているものと考え、雑兵に討ち取られるなら、と宿泊していた妙覚寺の東隣の二条新御所(旧二条城)での籠城を決意します。二条新御所は、以前に織田家から誠仁親王一家に譲ったものでしたが、誠仁親王一家には別邸に移ってもらい、信忠はそこに籠城します。

二条新御所には、信長の馬廻衆1千ほどの軍勢も駆け付け、明智勢との戦端が開かれます。1千5百ほどの信忠軍は非常に戦意が高く、1万数千の明智軍との間で一進一退の攻防を繰り広げます。

しかし、明智軍が二条新御所に隣接する近衛前久の屋敷から矢や鉄砲で攻撃を始めると徐々に信忠軍は劣勢に転じます。そして、二条新御所の敷地内に明智軍が侵入すると、信忠の軍勢もついに敗れ去ります。

ただ、父信長と同じく、その遺骸は発見されず、今日に至るまで不明のままです。

1572年に初陣を果たした信忠は、信長包囲網の時期から織田家の覇権が確立されていくまでを経験し、武田氏滅亡の1582年まで、いわゆる「織田家最強の10年間」を生きた男と言えるでしょう。

信忠は、父信長の名声により、なかなか脚光を浴びないことが多いですが、多くの難関を乗り越えた戦国武将の一人として、今回、光を当ててみました。

【コラム4】松永久秀は悪人か?

ネットや書籍で戦国時代の三好家に仕えた武将、松永久秀を紹介するとき、「梟雄」(荒々しく狡猾な人)や「三大悪人の一人」などの言葉で説明されることがあります。

その理由については、主に将軍殺し、東大寺(大仏殿)焼き討ち、主家三好家の乗っ取り、という3つの点に言及されることが多くあります。今回は、それらの点についてお話します。

  • 久秀は将軍足利義輝を殺したのか。

まず、久秀は、永禄の変(1565年5月19日)(※1)が起きた際、京にはいませんでした。よって、久秀の悪行とされる理由は、嫡男松永久通に将軍殺害を指示したから、という言われ方をしていますが、その証拠はありません。親が子に指示した証拠となると、対面での指示の可能性もあるため、証拠を見つけられない可能性が高いと言われてしまうかもしれませんが、証拠がないのに松永久秀の指示と言いきることもできないと感じます。

また、永禄の変の2年前の1563年、久秀は既に家督を久通に譲っています。(久秀が家督を譲った後も松永家中の事実上の首長的地位にあるとは言え)久通自身の判断の可能性も十分にあり、実際に久通は実行者であるため、久秀に罪をかぶせるべきか、疑問が残ります。

さらに、永禄の変の直後、久秀は興福寺一乗院の覚慶(後の足利義昭)を助命しています。(久秀が覚慶を害さないとの誓紙を提出し、覚慶から久秀へ頼みとしているとする旨の書状が出ています。)これは、兄の将軍足利義輝や弟の鹿苑寺周暠が殺害された流れに反する行動であり、久秀は、主家の三好義継や子の松永久通とは異なる行動を取っている点から、将軍殺害に賛成していなかったのではないか、とさえ感じてきます。

  • 久秀は東大寺を焼き討ちにしたのか。

東大寺(大仏殿)の焼失は、1567年10月10日、当時三好家は内部分裂により、三好三人衆が松永久秀の居城の多聞山城に押し寄せ、包囲していたときに起きました。夜、久秀が三人衆が本陣を置いていた東大寺に夜襲をかけた際、東大寺の幾つかの建物で火が上がり、大仏殿の回廊に火が回り、午前2時頃に大仏が焼失しました。そして、三人衆はその夜襲により、東大寺から離れた場所に撤退します。

この焼失の詳細な経緯は諸説あり、三好三人衆の兵が撤退するときに火を放ったとするものや三人衆の中にいたキリスト教徒が信仰上の理由から放火したものなども伝えられていますが、どれが真相かは分かっていません。

いずれにしても、久秀は、1559年の大和入り以来、8年間、東大寺を含む奈良を支配・保護してきており、それが三好三人衆の侵入に対して反撃する際に、敵の本陣だった東大寺の大仏殿が何かしらの事情で焼失してしまったものであることが分かります。元々大仏殿を焼く予定であれば、自領内かつ居城にも近いため、もっと早い時期にいくらでも焼き討ちなどできたものですので、悪人の根拠とされるような、悪意をもって東大寺を焼き討ちしたものではないことが分かります。

  • 久秀は主家を乗っ取ったのか。

まず、三好家を「乗っ取った」という定義にもよりますが、三好長慶から信頼され、三好家中で強い影響力を持ったという点は様々な資料から確認できます。しかし、それは同じく三好家臣の篠原長房も三好家中で大きな影響力を持ったことは確認できており、実際に篠原長房は、三好家の家督を継いだ主君三好義継と対立し、三好三人衆まで篠原長房に味方したため、義継は当主であるにも関わらず出奔し、久秀と共に織田の軍門に下っています。その際、義継は久秀に同心し、久秀が三好家にとって「大忠」であるとまで言っています。

また、時代は遡りますが、他にも久秀が三好義興(主君三好長慶の嫡男)を毒殺したとする説など、三好一族の不幸を久秀によるものとする話がありますが、どれも当時の資料からは確認できず、後世になって作成された物語でしか確認できないため、創作されたものと考えられます。ちなみに、義興は病気になってからの過程が記録に残されており、病死と考える方が自然と思われます。

  • 逆に久秀は悪人ではないと言えるのか。

戦国武将として、何を基準にして「悪人」とするのかにもよりますが、久秀が、1577年8月、当時仕えていた織田信長を「裏切り」、同10月に、織田軍に包囲されて滅亡したという点では、戦国時代の多くの「悪人」の一人かもしれません。

ただ、最後の裏切り以外に、久秀の「悪人」行為はなく(※2)、「梟雄」や「三大悪人の一人」と呼ばれるほどなのか、という点で疑問は残ります。

(※1)永禄の変:1565年5月19日、第13代将軍足利義輝が三好義継が松永久通や三好長逸などと共に1万の兵力を従え、京の将軍御所を襲撃し、足利義輝、その弟の鹿苑寺周暠などが殺害された事件。言い伝えでは、兵法家の塚原卜伝から免許皆伝を受けていた足利義輝は、襲撃当日、御所にあった足利家の名刀を多数畳に刺し、多数の敵兵を斬り倒し、刃こぼれするたびに、名刀を1本ずつ抜いては戦い、最後は力尽きて三好兵に殺害されたと言う話が残っています。(個人的には後世の創作のように感じますが、それだけ剣術の達人であったことを伺わせる話かと思っています。)

(※2)1565年に久秀が義継と対立したとする話がありますが、これは覚慶を助けた久秀をよく思わない三好三人衆のクーデターにより、久秀が追放されたものであり、特に久秀が主家に対して挙兵したものではありません(実際に2年後に主君三好義継は久秀側につき、信長に与したことは上述のとおり。)。また、1568年の信長包囲網の際、信長を裏切ったという話は事実ではなく(よって裏切った後に降伏して茶器を献上した話も事実ではありません。)、その時期を通じ、久秀は継続して信長の指示の下で家臣として、行動しています。