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【コラム1】「鎌倉幕府」は存在したのか。

  • 「幕府」という言葉

日本には、歴史上、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と3つの幕府が登場します。しかし、3つの幕府がそれぞれ政治を行っていた時代に、「幕府」という言葉はあまり普及していませんでした。

厳密に武家政権の政庁や体制を表す「幕府」という意味で使用されるのは、室町時代になってからであり、それが普及するのは江戸時代後期(幕末又は明治時代とも言われる。)でした。「幕府」という言葉は、実際に該当する時代にその言葉が使われたことはほとんどありませんでした。つまり、現在使われている3つの幕府は、後世になってから、それぞれ権力を持った一族の拠点の土地を幕府という名前で表したものになります。

また、江戸時代に入って将軍の居館を「柳営」とも言っていましたが、それも、今の「幕府」という意味とも少し違っていました。また幕府は、物理的な将軍の宿館という意味に由来します。

  • 「幕府」は中国が由来

そもそも幕府は、中国から輸入された言葉で、古代中国において、王から命じられて遠征中だった将軍が陣営として幕を張り巡らせて設置した幕舎のことを、幕府と呼んでいました。その際、遠征中の将軍が、本城にいる王に対して、細々とした判断を仰ぐと、機敏な判断ができなくなるため、そのような将軍には、軍の指揮権を含めた様々な権限を与えられていたことから、遠征先での統治や軍団の運営を円滑に行うための体制を意味して「幕府」と呼んだことが由来です。

  • 頼朝が作った大倉御所は他の家を壊して作ったもの

1180年10月15日、源頼朝が鎌倉の居館である大蔵御所に入ってから、頼朝の鎌倉を中心にした政権が始まったと言われています。

なお、頼朝の相模国入りは、同年10月6日で、しばらくは民家を宿館として邸宅を建てる土地を探し、一度は父である源義朝の旧跡のある亀ヶ谷(かめがやつ)という地に邸宅を建てようかと検討したものの、同地は土地が広くなく、既に家臣の三浦義実が寺を建立していたことから諦め、大倉御所の地になったとのことです。ちなみに、大倉御所は、約200年も使用した、ある御家人の家が、安倍晴明(あべのせいめい)の府を押してあるため一度も火災にあったことがないという話から、その御家人の家を取り壊し、大倉御所の建設に使われたと言われています。

  • たまたま選ばれた征夷大将軍

さて、幕府というと必ず言及されるのが征夷大将軍です。多くの人が、征夷大将軍になると、幕府という体制を築いて、政権を持つというイメージを持っているかと思います。

しかし、実際には、頼朝が1192年に上洛した際、特に征夷大将軍を指定して朝廷に要求したわけではなく、大将軍という地位クラスを朝廷に要求したと言われています。

朝廷内では大将軍のポストとして、惣官、征東大将軍、上将軍、征夷大将軍の4つを検討します。その際、朝廷の高官たちは、惣官は平宗盛(平清盛の三男・後継者)が任命されて滅ぼされ、征東大将軍は源義仲(源頼朝の従兄弟にして頼朝と対立)が任命されてこれも滅ぼされ、いずれも縁起が悪く対象から外します。また、上将軍は日本史上で先例がないため、先例主義である朝廷の高官たちは、これも対象から外します。最終的に坂上田村麻呂などの活躍もあり縁起の良かった征夷大将軍が選ばれたと言われています。

このように、征夷大将軍というポストは、偶然選ばれたものであることが分かります。

  • 頼朝の征夷大将軍は、たったの2年

頼朝は、1192年に任命された征夷大将軍を、そのたった2年後の1194年に辞任します。その理由は分かっていません。

そもそも頼朝が大将軍の地位を要求した理由として、大臣になると京への上洛を求められる可能性があるため、大臣などを除き、権威ある高い官職を求めて大将軍を要求したと言われています。そのため、征夷大将軍はもちろん、大将軍のいずれの地位にも固執していたわけではなく、権威付けのための任官だったと考えられます。

  • 征夷大将軍になると政権の首長になれるという構図は後世の風習

そして、1199年に頼朝死去を受けて、2代目の源頼家が政権を継承するも、征夷大将軍への任官は1202年と継承から3年後のことでした。

このことから、2年間で辞任した頼朝と頼家は、2人とも特に征夷大将軍を政権首長者の根拠としていたわけではないことが分かります。

こうした点を踏まえると、征夷大将軍に任命されることにより、政権首長者の座を得るという構図は、その後の実績の積み上げにより、結果的に作られていったものということが分かります。

  • 「鎌倉幕府」とは便宜上の言葉

結論として、「鎌倉幕府」という言葉は、便宜上使われてきたものということが分かります。頼朝が鎌倉で政治を行った時代には、後の時代の幕府で想像される政庁や体制、法などもあまり整備されておらず、むしろ武士で初めて京から大江広元などの文官を招き、少しずつ政権の基盤を作り始めた武士の集合体という姿が見えてきます。

当時の関東武士団には文字が読めなかったり、書けなかったりする人たちが多く存在していました。むしろ、頼朝が設置した公文所のメンバーには、京下りの文官以外で関東武士は足立遠元ただ一人しかいませんでした。

一方で、当時の京の貴族の日記には、関東武士の荒々しさや高い武術を恐れていることが書かれており、どちらかというと関東武士は武辺者という印象がありました。

  • 頼朝の残した歴史

頼朝がそのような武士たちを集めて戦闘に勝ち、鎌倉に居を構えて、命令に従わせることができたのは、源氏という貴種を重んじる当時の風潮に加えて、人間的な魅力が頼朝にあったものと想像されます。しかし、それも頼朝の死後に何度も起きた鎌倉の内紛(比企氏の乱、畠山重忠の乱、和田合戦など)が、当時の政権の不安定さを証明しているとも言えます。

ただ、頼朝がそうした武士たちを率いて初めて手にした権力は、それから700年近く武士の手元にありました。征夷大将軍への任命とは関係なく、この画期的な変化こそ頼朝の残した歴史だと感じます。