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【コラム5】織田信忠 ~織田家最強の10年を生きた男~

戦国時代の織田信長の嫡男、織田信忠というと、父織田信長や他の織田家の武将たちに比べ、ややインパクトに欠ける印象が残っています。信忠は、16歳の初陣から26歳で本能寺の変により自刃するまでの10年間、どのように生きたのでしょうか。

今回は、可能な範囲で信長と切り離し、信忠個人の功績と言えるものを挙げてみたいと思います。

  • 静かな初陣

織田信忠(幼名:奇妙丸)は、1557年に生まれます。生母は諸説ありますが、生駒氏出身の吉乃(きつの)が有力と言われています。そして、信忠は、父信長の正室濃姫の養子になったとも言われています。

1572年、信忠は16歳で初陣を迎えます。織田家は、まさに信長包囲網の時期でした。織田軍は、2年前には姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、1年前は浅井・朝倉連合軍を支援した比叡山延暦寺の焼き討ちをしており、予断を許さない状況でした。

信忠の初陣の相手は、近江の浅井長政の家臣阿閉貞征(あつじ さだゆき)です。信長から、その居城である山本山城攻略を命じられ、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉など、織田家の有力武将たちを率いて同城を攻めたて、敵兵50名以上を討ち取る成果を上げます。

名だたる織田家の武将たちのも支援もあり、信忠の初陣は大過なく終わります。

  • 合戦の日々(長島一向一揆、長篠の合戦、岩村城攻め、そして雑賀攻め)

初陣後、信忠は織田家の合戦に次々に駆り出されます。

1574年の長島一向一揆では、織田軍が東方面・西方面・中央の三手に分かれて出陣した際、信忠は東方面の大将を務めており、1575年の長篠の合戦では、信長と一緒に出陣し、その歴史的合戦を目の当たりにしています。そして、長篠の合戦の直後、信忠は、単独で美濃は岩村城の秋山虎繁を攻め、この歴戦の武将をおよそ4か月の籠城戦の末、ようやく捕縛の上、磔にしています。この功をもって、19歳になった信忠は、朝廷から秋田城介(あいたじょうのすけ)の官位を贈られ、また父信長からは、早くも家督を譲られます。

織田信長は、1577年2月、雑賀攻めを行います。このとき、織田軍の先陣だった明智光秀や細川藤孝が、敵の雑賀衆(鈴木孫一など)の攻勢にあって苦戦を強いられていたとき、信忠は一門衆の手勢を率いて先陣を救援し、活躍します。その後、信忠が雑賀衆の降伏した城を受け取り、成果をあげています。

  • 信忠を信頼する信長

そして、転機となったのは1577年の松永久秀の謀反の鎮圧でした。

同年9月、謀反を起こした松永久秀の立てこもる信貴山城攻めでは、信忠が総大将となります。当初は、信長は松永久秀という人材を惜しみ、1か月ほどは交渉しての説得を試みますが、効果がないため、諦めて城攻めを決意したと言われています。9月28日、信忠は、信長の命を受けて、織田軍を率い、松永久秀側の片岡城の攻撃開始します。その後、信忠は、わずか2週間ほどたった10月10日、松永久秀居城の信貴山の落城まで成し遂げています。(これは激戦となった片岡城攻めで、明智光秀と細川忠興・興元兄弟の奮迅の働きにより、一気に織田軍の攻略が進んだとも言われています。)

いずれにしても、信長は、信忠が総大将として松永久秀の謀反をわずか2週間という短期間で鎮圧した功績を高く評価し、以後、信長は大軍を指揮する機会は大きく減り、それに代わり、信忠の活躍が飛躍的に多くなっていきます。これは、事実上の家督相続がようやく始まったと言えるでしょう。

  • 武田家をわずか1か月で滅ぼした信忠

信忠は、その後も本願寺攻めや播磨遠征などで功績を残し、1582年2月、次は甲斐の武田攻めの総大将となります。相手は、長篠の合戦や高天神城落城で勢力を落としたとは言え、戦国時代を代表する甲斐の武田氏の存在感は非常に大きいものでした。

2月1日、武田家の当主、武田勝頼の妹婿木曽義昌が内通してきたとの一報が信忠の下に入ります。すぐに安土城の信長に知らせると、信長の対応は早く、各地域から甲斐への侵攻が開始されます。

駿河から徳川家康が、関東から北条氏政が、飛騨から金森長近が、そして、伊那から織田信長と信忠親子が、それぞれ侵攻の手はずを進めます。

2月12日、信忠は、有力家臣の川尻秀隆や滝川一益などを率いて、岐阜城から出陣します。

ところが、木曽義昌だけでなく、穴山梅雪や武田信兼などの武田家重鎮と言われた親族まで次々に武田勝頼から離反してしまいます。そして雪崩を打って武田家臣が離反していく中、唯一織田軍に立ちはだかった武将が、高遠城の仁科盛信でした。

信忠が、高遠城の仁科盛信に降伏勧告を行ったところ、「早々に攻城されよ。」と返答があります。そして、3月2日、信忠は高遠城の総攻めを開始します。信忠は、高遠城の堀際まで進み、自ら武器を取って前線に立って指揮したことから、織田家の将兵は奮起して、一気に織田軍は城内に侵入し、高遠城は落城します。

そして、ついに3月11日、追い詰められた武田勝頼・信勝親子は天目山で自害し、武田家は滅びます。そのとき、信長は、まだ美濃の岩村城に到着したところでした。

信忠が出陣からわずか1か月ほどで武田家を滅ぼしたという事実に、信長も衝撃を受けます。当初信長は、あまりの進撃の速さに、信忠や信忠の家臣たちに深入りしないように連絡をしますが、信忠には聞き入れられませんでした。むしろ、信忠率いる織田軍は、間髪入れずに一気に攻め込んだことで、武田軍に立て直す余裕を与えず、わずか1か月でほどで武田家を滅亡まで追い込みました。

父信長は、当初その行動に否定的でしたが、続報が届くにつれて状況が分かると、信忠を激賞し、信忠と共に攻め込んだ家臣たちの功も労います。

  • 二条新御所(旧二条城)での自刃

武田家を滅ぼした約3か月後、信忠は、今度は自分が攻め滅ぼされる側になります。

同年(1582年)6月2日、家臣の明智光秀が、1万数千の軍勢をもって京の本能寺に宿泊中の信長を襲撃し、殺害します。その報を聞いたとき、信忠は本能寺の北東約1kmにある妙覚寺という寺に宿泊中でした。

信忠はすぐに手勢5百程を率いて、本能寺に駆け付けようとしますが、道中で家臣の村井貞勝に会い、すでに本能寺は焼け落ち、信長の運命が絶望的な状況であることを知ります。

このときの状況について、多くの歴史家は、信忠が信長の死を確認した時点で、必死に逃げ延び、本拠地とする美濃や尾張に戻って体制を整えれば、反撃の機会があったという指摘をしています。たしかに明智軍は本能寺にいる信長を確実に殺害するのに専念しており、他の京の地を掌握していなかったと言われています。実際に信忠と一緒にいた前田玄以は嫡男三法師(後の織田秀信)を連れて脱出に成功しており、他にも叔父の織田有楽斎も京からの逃亡に成功しています。

しかし、信忠はすでに京の四方を明智勢に囲まれているものと考え、雑兵に討ち取られるなら、と宿泊していた妙覚寺の東隣の二条新御所(旧二条城)での籠城を決意します。二条新御所は、以前に織田家から誠仁親王一家に譲ったものでしたが、誠仁親王一家には別邸に移ってもらい、信忠はそこに籠城します。

二条新御所には、信長の馬廻衆1千ほどの軍勢も駆け付け、明智勢との戦端が開かれます。1千5百ほどの信忠軍は非常に戦意が高く、1万数千の明智軍との間で一進一退の攻防を繰り広げます。

しかし、明智軍が二条新御所に隣接する近衛前久の屋敷から矢や鉄砲で攻撃を始めると徐々に信忠軍は劣勢に転じます。そして、二条新御所の敷地内に明智軍が侵入すると、信忠の軍勢もついに敗れ去ります。

ただ、父信長と同じく、その遺骸は発見されず、今日に至るまで不明のままです。

1572年に初陣を果たした信忠は、信長包囲網の時期から織田家の覇権が確立されていくまでを経験し、武田氏滅亡の1582年まで、いわゆる「織田家最強の10年間」を生きた男と言えるでしょう。

信忠は、父信長の名声により、なかなか脚光を浴びないことが多いですが、多くの難関を乗り越えた戦国武将の一人として、今回、光を当ててみました。