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英仏百年戦争物語6:女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドル

ブルターニュ継承戦争についてのお話です。

1. ブルターニュ継承戦争の序盤

1341年の4月30日にブルターニュ公ジャン3世が死去してから、およそ2ヶ月のうちに、後継者の一人であるモンフォール伯は、ブルターニュ領のほとんどの領地を支配下に治めます。

モンフォール伯がブルターニュの主邑都市ナントを手に入れたとき、領民はモンフォール伯に喝采を浴びせて迎えたといわれています。

しかし、フランス王の甥であり、ブルターニュ領のもう一人の継承者であるジャンヌと結婚したシャルルは、フランスの大軍でもって、ナントに攻め入り、あっけなくモンフォール伯を捕虜にしてしまいます。

これによって、戦争は終わったかに見えましたが、これで終わらせなかった人物が二人います。

2. 女傑ジャンヌ・ドゥ・フランドルの奮戦

一人は、モンフォール伯の妻、ジャンヌ・ドゥ・フランドルでした。このジャンヌは、「獅子心」を持つ、女傑といわれ、この継承戦争を実質的に継続させた指導者でした。
百年戦争のジャンヌといえば、ジャンヌ・ダルクの知名度が高いですが、このジャンヌ・ドゥ・フランドルもまた、徹底抗戦で敵を恐れさせた優秀な指導者と言えます。

そして、もう一人が、エドワード3世です。彼は援軍を送り、ブルターニュの地でフランス軍と激戦を繰り広げながら、ジャンヌを助け、戦争を続けました。

ジャンヌは、夫のモンフォール伯がいなくなった後も、息子のジャンを守るため、エンヌボン城に立てこもり続けました。そして、城に一緒に籠もっていた女たちに、「スカートを切り、自らの身を自らの手で守るのです。」と呼びかけ、自分は城主として、武装して指揮を執り続けました。
そして、ジャンヌは敵の隙をつき、配下の騎士を率いて城外に飛び出し、敵の後方の陣営を破壊するなど大胆な行動にも出ています。

3. イングランド軍率いるウォルター・マーニー

この鬼神の働きをするジャンヌを助けるため、エドワード3世は配下の中でも優秀なウォルター・マーニーに、340の兵を授けて、援軍に向かわせます。
このウォルター・マーニーは、到着すると直ぐに、フランス軍に夜襲をかけて戦力を削いで、その後の戦いでも勝利を続けるなど、予想以上の活躍をします。

この報を聞くと、イングランド本国は沸き立ちます。
実は、失地王ジョンの世代から、エドワード1世、エドワード2世と3代にわたって、フランスへの陸戦では敗北ばかり経験していたからです。

ちなみに、このウォルター・マーニーは、21歳のときに、エドワード3世の妻、フィリッパの供として連れてこられたのが、始まりでした。小領主の末っ子の生まれで、決していい境遇で育ったとは言えないこの青年は、エドワード3世とフィリッパに気に入られて、準騎士、騎士と出世して、スコットランドとのダプリン・ムーアの戦い、ギャドザントの戦いで活躍して、この遠征司令官への抜擢を受けた人で、まさに這い上がってきた武将といえます。

4. 1343年の休戦と戦争の再開

このウォルター・マーニーと、ジャンヌ・ドゥ・フランドルの活躍で、イングランド陣営はこのブルターニュ継承戦争を有利に進めて、後にエドワード3世自身も大軍を率いて参戦しています。ちなみに、このイングランド国王の留守の際に、エドワード黒太子が弱冠12歳ながら、政治を行っています。
そして、1343年に教皇の仲介により、休戦協定が結ばれ、1346年には戦闘はなくなりました。

しかし、エドワード3世は1346年7月、再び軍を起こして、息子のエドワード黒太子と共に、ブルターニュ継承戦争で得た足場からフランスとの戦いに踏み切ります。
数々の町や都市を行軍して、エドワード3世と黒太子の軍は、クレシーの郊外で、フィリップ6世率いるフランス軍と対峙します。

英仏百年戦争物語 5:エドワード3世の試練

1. イングランドの複雑な事情

1338年、エドワード3世は、フランスのフランドルに上陸し、1339年に本格的なフランス領への侵攻を始めるものの、フランス王フィリップ6世に相手にされず、本格的な合戦に発展しませんでした。1340年になると、軍資金が底をついたことから、エドワード3世は、早くもイングランドに帰国せざるを得なくなります。

エドワード3世は戦争を行う中で、イングランドがフランスに比べて国力があまりないことから、常に軍事費の調達に苦心していました。
実は、戦いが起こっていたのは、フランスだけでなく、百年戦争勃発の原因ともなっているスコットランドでも、まだ続いていました。エドワード3世のサポートで征服したベイリアルが、いまだに旧支配者のデイビッド(2世)派との戦いを繰り広げていたからです。

ベイリアルという貴族は、軍事面の資質では、優れた能力を発揮した人物でしたが、政治的なセンスは持ち合わせていなかったようで、常に反乱を起こされ、スコットランドの主要都市であるパースが敵に囲まれるなど、窮地に立たされていました。

そのため、戦争が始まってもエドワード3世は、思うように兵を集められないばかりか、やっと軍事行動を起こしても、その弱点をフランス王フィリップ6世に見透かされて、時間稼ぎをされるなどして、軍事費が底をついたり、補給が途絶えてしまっていました。

2. イングランドの海戦勝利

1340年6月、フランドル沿岸のエクリューズで大規模な海戦が行われました。

フランスが、イングランド上陸の作戦を打ち立てて、400隻の船に兵力2万でもって攻撃を開始したのです。
これに対して、エドワード3世は必死に兵をかき集めるものの、装甲兵と弓兵を集めても約2500ほどしか集まりませんでした。しかし、船の方は160隻と比較的数は揃うことができました。

そして、やはり戦いは、数では決まらない所が面白いです。

フランス海軍が3つに分かれて攻撃を仕掛けてきたのを見たイングランド海軍は、括弧撃破でもって、あっさりと圧倒的有利だったフランス海軍を打ち破ってしまいます。この戦いで、イングランド軍は、敵軍の総数の半分にあたる200隻の帆船を捕獲しています。

これに勢いを得たエドワード3世、ついにフランスへ軍事行動を開始するのですが、先軍として送っていた1万5千がサン・オマーの地で、フランス軍に打ち破られてしまいます。その後、エドワード自ら総軍を率いて進むものの、フランス軍が大兵力でもって堅く城に籠もって守るなどして、応戦したため、うまく進めずに、膠着状態に陥り、結局教皇の仲介で、休戦を結んでしまいました。

フランスを倒すためとはいえ、膨大な軍事費をかけてまでして遠征して、それが無に帰してしまった痛手は大きかったようですが、イングランドは更なる戦争に参加する事になってしまいます。

それが、ブルターニュ継承戦争です。

3. さらなる後継者争い

少し話が複雑になってしまいますが、百年戦争は、スコットランド、フランス、ブルターニュの3つの領地で、後継者争いが起こったものです。

ブルターニュでは、ブルターニュ公ジャン3世が子供を残さずに死んでしまい、その異母弟のモンフォール伯と、姪のジャンヌの二人に王位継承の資格が残されていました。

しかし、姪のジャンヌは、すでにフランス王の甥(ブラワ伯シャルル)と結婚していたため、すでに勢力図は決まってしまっていたので、逆にモンフォール伯は、イングランド王に支援を求めるべく、イングランド王のフランス王位継承の資格を認め、全面的にエドワード3世側につきます。

これによって、英仏両国の溝はさらに深まることになり、ブルターニュも含めて、戦争は多角的な闘争へと発展していきます。