1.父親をクーデターで廃位させた15歳の王
(『エドワード3世(18世紀)』(Edward III (18th century) )(wikimedia))
1327年1月、エドワード3世が15歳の若さでイングランド王位を継承します。前年1326年に父親のエドワード2世は妻イザベル(エドワード3世の生母)のクーデターによって、廃位させられたあげくに謀殺されているのですが、そんな弱々しい父親に比べて、このエドワード3世こそ百年戦争開始から50年間王位に居続けて、イングランド軍側を圧倒的優位に導いた君主でした。特に戦いでは、趨勢を決める場面で勝利を収め、フランス軍を追い詰める事になります。
しかし、その栄光は、彼が長い辛い試練を乗り越えて得た産物でした。
2.強き国スコットランド
まず、エドワード3世の王としての最初の仕事は、スコットランドとの戦いでした。
父親エドワード2世が、ロバート・ブルース率いるスコットランド軍にバノックバーンの戦いで大敗を喫して、その後もただ敗北し続けたため、エドワード3世が後を継いだときには、イングランド北部では多くの土地を失っていて、常にスコットランド軍の侵略の危険にさらされていました。
ちなみに、バノックバーンの戦いは、スコットランド軍1万(ロバート・ブルース)に対して、イングランド軍3万(エドワード2世)で戦闘を行ったにも関わらず、単調な戦法で正面突破を試みてイングランド軍が大損害を被ってしまう、といういきさつでした。
ちなみに、このロバート・ブルースは、かの有名な映画「ブレイブハート」のウィリアム・ウォレスと共に戦い(映画でもロバート・ブルースは登場します。)、そしてウィリアム・ウォレスの死後、長い闘争の末に独立を勝ち取って王位に就いた人物です。
(ロバート・ブルース)© Ad Meskens / Wikimedia Commons
3.後の英雄には屈辱の初陣
しかし、ロバート・ブルースはこのときすでに老齢で病気がちになっていたので、家臣のジェームズ・ダグラスが攻めてくるのですが、これに対して大軍を率いて迎えたエドワード3世には、試練のときでした。
彼はまだ若干15歳という事もあって、スコットランド独立を勝ち取った歴戦の武将、ダグラスにまさに子供のように翻弄されてしまいます。エドワードは、敵の所在が掴めずにあちこちでダグラスに略奪を繰り返されては、イングランドの北部の土地をさ迷います。そして、彼は軍を幾つかの部隊に分けて敵を待ちますが、それでもダグラスを捉えることができずに、逆に家臣が捕虜になるなど、ダグラスの相手にはなりませんでした。
最後にはスタンホープ・パークの戦いで、僅かな手勢を率いたダグラスに、大軍のイングランド軍の本陣に奇襲をかけられ、エドワード3世は家臣と共に必死に逃げるという辛い初陣を経験することになりました。
結局、ダグラスは、エドワード3世を好き放題に翻弄したあげくに、スコットランドに悠々と戻っていきます。
(『スタンホープ・パークの戦い』(Battle of Stanhope Park)(wikimedia))
やむを得ず、エドワード3世は軍を引き揚げて、城に帰還するのですが、やはり体裁としては、かなり悪かったようです。(しかし、その後スコットランドのダグラスは、イングランド側と話し合い、次期スコットランド王のデビッド(4歳)に、エドワード3世の妹のジョアン(7歳)を嫁がせて、和平を結んでいます。)
4.ヴァロワ朝の始まり
1328年1月、エドワード3世(15歳)はエノー伯の娘フィリッパ(13歳)と結婚します。
ところが、その翌月に重大な異変が起きます。
フランスのカペー朝のシャルル4世(端麗王)が、子供を残さずに死去してしまったのです。これによって、従兄弟のヴァロワ家出身のフィリップが王位を継いで、フィリップ6世と名乗ります。(ヴァロワ朝の始まり)
問題は、このフィリップ6世が5代前のフィリップ3世の孫で、イングランにいるエドワード3世も、実はそのフィリップ3世の直孫にあたり、二人の王位継承資格は対等なものでした。
そのため、そのイングランドのエドワード3世を無視して、伯になっていたフィリップがフランス王を名乗ったので、エドワード3世は異議を唱えますが、イングランドにて、スコットランド相手にてこずっている彼には、どうしようもできません。
関係は険悪なまま時は過ぎていくのですが、翌年1329年6月、スコットランド王ロバート・ブルースが死ぬ事で、英仏の時代の歯車は大きく動き出します。