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英仏百年戦争物語 5:エドワード3世の試練

1. イングランドの複雑な事情

1338年、エドワード3世は、フランスのフランドルに上陸し、1339年に本格的なフランス領への侵攻を始めるものの、フランス王フィリップ6世に相手にされず、本格的な合戦に発展しませんでした。1340年になると、軍資金が底をついたことから、エドワード3世は、早くもイングランドに帰国せざるを得なくなります。

エドワード3世は戦争を行う中で、イングランドがフランスに比べて国力があまりないことから、常に軍事費の調達に苦心していました。
実は、戦いが起こっていたのは、フランスだけでなく、百年戦争勃発の原因ともなっているスコットランドでも、まだ続いていました。エドワード3世のサポートで征服したベイリアルが、いまだに旧支配者のデイビッド(2世)派との戦いを繰り広げていたからです。

ベイリアルという貴族は、軍事面の資質では、優れた能力を発揮した人物でしたが、政治的なセンスは持ち合わせていなかったようで、常に反乱を起こされ、スコットランドの主要都市であるパースが敵に囲まれるなど、窮地に立たされていました。

そのため、戦争が始まってもエドワード3世は、思うように兵を集められないばかりか、やっと軍事行動を起こしても、その弱点をフランス王フィリップ6世に見透かされて、時間稼ぎをされるなどして、軍事費が底をついたり、補給が途絶えてしまっていました。

2. イングランドの海戦勝利

1340年6月、フランドル沿岸のエクリューズで大規模な海戦が行われました。

フランスが、イングランド上陸の作戦を打ち立てて、400隻の船に兵力2万でもって攻撃を開始したのです。
これに対して、エドワード3世は必死に兵をかき集めるものの、装甲兵と弓兵を集めても約2500ほどしか集まりませんでした。しかし、船の方は160隻と比較的数は揃うことができました。

そして、やはり戦いは、数では決まらない所が面白いです。

フランス海軍が3つに分かれて攻撃を仕掛けてきたのを見たイングランド海軍は、括弧撃破でもって、あっさりと圧倒的有利だったフランス海軍を打ち破ってしまいます。この戦いで、イングランド軍は、敵軍の総数の半分にあたる200隻の帆船を捕獲しています。

これに勢いを得たエドワード3世、ついにフランスへ軍事行動を開始するのですが、先軍として送っていた1万5千がサン・オマーの地で、フランス軍に打ち破られてしまいます。その後、エドワード自ら総軍を率いて進むものの、フランス軍が大兵力でもって堅く城に籠もって守るなどして、応戦したため、うまく進めずに、膠着状態に陥り、結局教皇の仲介で、休戦を結んでしまいました。

フランスを倒すためとはいえ、膨大な軍事費をかけてまでして遠征して、それが無に帰してしまった痛手は大きかったようですが、イングランドは更なる戦争に参加する事になってしまいます。

それが、ブルターニュ継承戦争です。

3. さらなる後継者争い

少し話が複雑になってしまいますが、百年戦争は、スコットランド、フランス、ブルターニュの3つの領地で、後継者争いが起こったものです。

ブルターニュでは、ブルターニュ公ジャン3世が子供を残さずに死んでしまい、その異母弟のモンフォール伯と、姪のジャンヌの二人に王位継承の資格が残されていました。

しかし、姪のジャンヌは、すでにフランス王の甥(ブラワ伯シャルル)と結婚していたため、すでに勢力図は決まってしまっていたので、逆にモンフォール伯は、イングランド王に支援を求めるべく、イングランド王のフランス王位継承の資格を認め、全面的にエドワード3世側につきます。

これによって、英仏両国の溝はさらに深まることになり、ブルターニュも含めて、戦争は多角的な闘争へと発展していきます。

英仏百年戦争物語 4:出兵準備

1. 350万 VS 1600万の戦争

1337年11月1日、イングランド王のエドワード3世は、フランス王位を継承したヴァロワ朝の創始者フィリップ6世に挑戦状を送り、いよいよ英仏間で百年戦争が開始します。
このとき、15歳でイングランドの王座に就いたエドワード3世は、すでに25歳になっていました。財政難への対処や議会との駆け引き、軍歴のどれを見ても、心身ともに以前とは見違える大人に成長していました。

しかし、百年戦争当時の両国の国力の差はかなり開いていました。イングランド(ウェールズ含む)の人口はおよそ350万人。それに比べて、フランスは1600万人と、統計上の差が大きく、イングランドは、実際ほとんどフランスのブルターニュ公や、ブルゴーニュ公などの大きな土地を領した貴族くらいの規模で、フランスと並ぶほどの国には発展していなかったと言われています。

人口が国力のすべてではありませんが、隣国間の戦争において、人口の多い国が兵力や経済力で優位に立ちやすいことは容易に想像できます。それにも関わらず、エドワード3世が、自国の4~5倍ほどの大国を相手に宣戦布告したのは、大変興味深いと思います。
エドワード本人に勝機があったのかは、知る由もありませんが、勝つ見込みがないのに始めたとはあまり考えられません。

2. エドワード3世の計略と政治

ちなみにエドワード3世は、百年戦争が始まる前に、将来の英仏間の開戦を予想していたのか、フランスに布石を打っています。
それは、フランスへの羊毛の輸出の禁止でした。これにより、フランドル地方の毛織物業が大きな打撃を受けます。そして、労働者を中心にフランドル伯への不満が高まり、内乱に発展します。これによって、貴族が親仏派、市民が親英派と分かれて戦う事になるのですが、これ一つを見てもエドワード3世の計略は冴えわたっていました。

ただ、それでもイングランド側には、開戦してから、幾つか困難に直面します。一番大きな問題は、軍費の捻出でした。
イングランドは、当時フランスとは違い、貴族の反対や分裂はありませんでした(後の薔薇戦争まで)。その代わり、イングランド王と議会の間での意見の衝突や不一致があり、それまで多くの王が、議会との話し合いを重視していました。
そして、この軍費を出すのにエドワード3世は、様々な手段でもって、資金を調達し、軍の派遣をこぎつける状態でした。まず、羊毛の最低価格を決め、さらに特定の商人に取引を許可する事で、価格を上げて収入を増やします。さらに、その羊毛の貿易の特権をイタリア商人に売り、他に動産税を取り入れるなど、次々と政策を打ち出します。

3. イングランド軍の出兵

これらの政策によって、エドワード3世は軍資金を得て、1338年ようやくエドワード3世は、何とか集めた3350名の兵を引き連れて、イングランド軍の第一回遠征が始まるのですが、フランスで落ち合うはずだった諸侯に理由をつけて渋られ、結局大陸への出兵は翌年1339年の7月になります。

ちなみに、話は少し前後するのですが、百年戦争の開戦の7年前、1330年3月4日、ウェストミンスターでフィリッパが男児を出産しています。
この男児が、後に漆黒の鎧を着て、戦場で勝利し続けることになるエドワード黒太子(Edward, the Black Prince)で、イギリスの戦史上に名を残す人物です。

英仏百年戦争物語 3:英仏百年戦争へ

1.スコットランドの武人たちの死

1329年にロバート・ブルースが死去して、弱冠5歳の息子デイビッドが即位し、デイビッド2世と名乗ります。

更にエドワード3世にとって、朗報はこれだけではありませんでした。ロバート・ブルースの家臣の中でも戦闘経験を積んで、並外れた戦上手だったジェームズ・ダグラスが、戦死したのです。
主君ロバート・ブルースが死ぬ直前に自分の首を聖地エルサレムに運ぶように遺言を残していたので、その遺言を果たすべく、ダグラスは聖地へ向かいます。しかし、途中のフランドルでカスティリア王とグラナダ王の戦闘に参加して、その戦闘で部下と共に敢えなく討ち死にしてしまったのです。

2.転機となったスコットランド遠征

これによりエドワード3世は、スコットランドが弱体化しているものと考え、スコットランド王位継承資格を有するスコットランド貴族エドワード・ベイリアルに経済的支援を行って、このベイリアルにスコットランドへ遠征させます。
ちなみに、エドワード・ベイリアルは、ロバート・ブルースが即位する前の王だったジョン・ベイリアルの息子です。父親のジョンは、エドワード1世(3世の祖父)に徹底的に打ち破られて、王位を捨てた上に、ロンドン塔に幽閉されています。
そのため、息子ベイリアルの前半生は、悲劇の連続で、ロバート・ブルースがスコットランド王に即位した事で、彼の存在はほとんど歴史から消え去られていました。

しかし、エドワード・ベイリアルは、実は軍事的才能に恵まれた武将でした。ほとんど戦闘経験がないにも関わらず、この悲劇な境遇に育った47歳の男は、エドワード3世の支援を受けて、ベイリアル家復活の遠征に乗り出します。

何とか1500人の兵をイングランド領内でかき集めたベイリアルは、海路でスコットランドに向かいます。
これは、議会の反対を予想したエドワード3世が、議会側に知られないようにするために、ベイリアルに指示したためと言われています。

3.華麗な戦術のダプリン・ムーアの戦い

スコットランドに到着したベイリアルに対して、デイビッド王の側近は、2万とも3万とも言われる兵力をかき集めました。そして、アーン河の畔で両軍は対峙するのですが、その夜ベイリアルは、夜襲をかけて、敵に大打撃を与えます。

これにより、寡兵と侮っていたスコットランド軍も徹底的にベイリアルを打ち破る勢いで、いよいよ戦端が開かれることになります。ベイリアル軍1500人 VS スコットランド軍2万人の戦い、ダプリン・ムーアの戦いです。
ベイリアルは、スコットランド軍を峡谷に引きずり込みます。そして、そこで戦いが始まるのですが、ここで後世に残る戦術がベイリアルによって、披露されることになります。

ベイリアルは、500人の騎士を中央に配置して、左右に500人ずつの長弓兵を斜めに配置して、敵を包み込むように陣形を作ります。これは、ちょうど鶴翼の陣と同様の形で、左右の翼が弓隊になっています。

戦闘を開始すると、2万のスコットランド軍は、その兵力を活かして、突撃を敢行します。それがとても激しい攻撃だったらしく、ベイリアル軍は、崩壊寸前まで押されますが、ギリギリのところで持ち堪えます。そして、ベイリアル軍の左右の長弓兵が次から次へと放つ矢に、スコットランド兵は、みるみるうちに倒され、焦ったスコットランド軍側は、更なる部隊を繰り出して押し出そうとするのですが、それが今度は前後に味方の部隊が入り乱れて大混乱を引き起こし、収拾不能になってしまいます。
冷静なベイリアルは、徹底的に長弓兵に手を休まずに射撃を続けさせ、最後にはスコットランド軍の司令官も討ち死にし、スコットランドは大敗を喫します。

このダプリン・ムーアの戦いは、奇跡と言っても過言でないくらいのベイリアルの大勝利であり、スコットランドに大きな衝撃を与えます。
その後もベイリアルは戦闘を続けて順調に勝利するものの、部下の裏切りに合い、結局身一つでイングランドに戻り、エドワード3世に再度支援を求めます。

4.英仏百年戦争の勃発

これに応じたエドワード3世は、自ら兵を率いて北上し、デイビッドの家臣の指揮する軍を、ベイリアルの戦術を真似るかの如く、長弓兵を駆使して、ハリドン・ヒルの戦いで打ち破ります。このときは、イングランド軍1万に対して、スコットランド軍は1万5千もの兵力を持っていました。

このようなエドワード3世とベイリアルの共同戦線で、デイビッド2世は、遂にフランスに逃亡してしまいます。そして、それを受け入れたフランス王フィリップ6世は、エドワード3世に対して、イングランドがフランスに持っていた領土(アキテーヌ)の没収を宣言します。

これに応じるが如く、エドワード3世もフランス王フィリップ6世に宣戦布告。

これが、百年戦争の幕開けです。いよいよ100年に及ぶ戦争が両国の間で繰り広げられることになります。

英仏百年戦争物語 2:エドワード3世の登場

1.父親をクーデターで廃位させた15歳の王

(『エドワード3世(18世紀)』(Edward III (18th century) )(wikimedia))

1327年1月、エドワード3世が15歳の若さでイングランド王位を継承します。前年1326年に父親のエドワード2世は妻イザベル(エドワード3世の生母)のクーデターによって、廃位させられたあげくに謀殺されているのですが、そんな弱々しい父親に比べて、このエドワード3世こそ百年戦争開始から50年間王位に居続けて、イングランド軍側を圧倒的優位に導いた君主でした。特に戦いでは、趨勢を決める場面で勝利を収め、フランス軍を追い詰める事になります。
しかし、その栄光は、彼が長い辛い試練を乗り越えて得た産物でした。

2.強き国スコットランド

まず、エドワード3世の王としての最初の仕事は、スコットランドとの戦いでした。
父親エドワード2世が、ロバート・ブルース率いるスコットランド軍にバノックバーンの戦いで大敗を喫して、その後もただ敗北し続けたため、エドワード3世が後を継いだときには、イングランド北部では多くの土地を失っていて、常にスコットランド軍の侵略の危険にさらされていました。
ちなみに、バノックバーンの戦いは、スコットランド軍1万(ロバート・ブルース)に対して、イングランド軍3万(エドワード2世)で戦闘を行ったにも関わらず、単調な戦法で正面突破を試みてイングランド軍が大損害を被ってしまう、といういきさつでした。

ちなみに、このロバート・ブルースは、かの有名な映画「ブレイブハート」のウィリアム・ウォレスと共に戦い(映画でもロバート・ブルースは登場します。)、そしてウィリアム・ウォレスの死後、長い闘争の末に独立を勝ち取って王位に就いた人物です。

(ロバート・ブルース)© Ad Meskens / Wikimedia Commons

3.後の英雄には屈辱の初陣

しかし、ロバート・ブルースはこのときすでに老齢で病気がちになっていたので、家臣のジェームズ・ダグラスが攻めてくるのですが、これに対して大軍を率いて迎えたエドワード3世には、試練のときでした。

彼はまだ若干15歳という事もあって、スコットランド独立を勝ち取った歴戦の武将、ダグラスにまさに子供のように翻弄されてしまいます。エドワードは、敵の所在が掴めずにあちこちでダグラスに略奪を繰り返されては、イングランドの北部の土地をさ迷います。そして、彼は軍を幾つかの部隊に分けて敵を待ちますが、それでもダグラスを捉えることができずに、逆に家臣が捕虜になるなど、ダグラスの相手にはなりませんでした。

最後にはスタンホープ・パークの戦いで、僅かな手勢を率いたダグラスに、大軍のイングランド軍の本陣に奇襲をかけられ、エドワード3世は家臣と共に必死に逃げるという辛い初陣を経験することになりました。
結局、ダグラスは、エドワード3世を好き放題に翻弄したあげくに、スコットランドに悠々と戻っていきます。

(『スタンホープ・パークの戦い』(Battle of Stanhope Park)(wikimedia))

やむを得ず、エドワード3世は軍を引き揚げて、城に帰還するのですが、やはり体裁としては、かなり悪かったようです。(しかし、その後スコットランドのダグラスは、イングランド側と話し合い、次期スコットランド王のデビッド(4歳)に、エドワード3世の妹のジョアン(7歳)を嫁がせて、和平を結んでいます。)

4.ヴァロワ朝の始まり

1328年1月、エドワード3世(15歳)はエノー伯の娘フィリッパ(13歳)と結婚します。

ところが、その翌月に重大な異変が起きます。
フランスのカペー朝のシャルル4世(端麗王)が、子供を残さずに死去してしまったのです。これによって、従兄弟のヴァロワ家出身のフィリップが王位を継いで、フィリップ6世と名乗ります。(ヴァロワ朝の始まり)

問題は、このフィリップ6世が5代前のフィリップ3世の孫で、イングランにいるエドワード3世も、実はそのフィリップ3世の直孫にあたり、二人の王位継承資格は対等なものでした。
そのため、そのイングランドのエドワード3世を無視して、伯になっていたフィリップがフランス王を名乗ったので、エドワード3世は異議を唱えますが、イングランドにて、スコットランド相手にてこずっている彼には、どうしようもできません。

関係は険悪なまま時は過ぎていくのですが、翌年1329年6月、スコットランド王ロバート・ブルースが死ぬ事で、英仏の時代の歯車は大きく動き出します。

英仏百年戦争物語 1:勝者

1.英仏百年戦争の勝者は英仏両国

個人的には、この百年戦争の話は、高校の世界史の授業で苦境に立たされていたフランスにジャンヌ・ダルクが突如現れて、唯一の砦であるオルレアンを解放して、劇的に挽回し、最後には勝利に終わったと教えられた記憶があります。

まず、このフランスの勝利で終わったという話で、現在のイギリス人とすでに食い違いがあります。イギリスでは、百年戦争は「イングランドの勝利に終わった。」と記録されていて、シェークスピアもその幾つかの著作の中でイングランドの勝利を何度か取り上げています。
実はこの百年戦争は、途中で何度か和睦が結ばれているのですが、イギリスの教科書では、百年戦争の歴史は、いわゆる日本人やフランス人などが知る百年戦争の途中で合意した和睦をもって終結したものとなっています。よって、その後の英仏間の戦闘はイギリスの教科書では百年戦争に含まれていません。そのため、イングランドの圧勝のまま和睦となり、幕を閉じた一連の戦いまでを、イギリス人は百年戦争と考えているのです。

さらに、百年戦争は、後世の人の目から歴史を見たときに、「百年戦争」と区切っているだけでして、実際には両国間で戦闘が行われたのを、20世紀に入ってからそう呼んだものです。

ちなみに、ジャンヌ・ダルクはもちろん現在のイギリス人の間にも認識されていて、その名前を知っていますが、それはイングランド側の政治の混乱に乗じて、フランスが息を吹き返したという話になっています。

2.ウィリアム征服王について

これは、百年戦争というよりもイングランドの歴史についてですが、このウィリアム征服王がヘイスティングスの戦いで勝利を収めるまで、イングランドはヴァイキングに絶えず襲撃されて不安定な時代を迎えていたといわれていますが、このウィリアム征服王こそ、文献で証明されるヴァイキングの血を引く者です。これによってイングランドが始まったというよりも、ヴァイキングの一族に完全に掌握された歴史と言えると思います。

ただ、このウィリアム1世は、正確には「ノルマンディー公ウィリアム」と言ったため、フランスのノルマンディーに領土を持つ領主(ロロを初代に持つ一族)でした。それが、遠征してイングランドを征服したに過ぎず、当初の本拠地はもちろんフランスのノルマンディーで、征服したイングランドの土地は、ほとんど植民地としての役割を果たしていました。
実際ウィリアムは常にフランス側に滞在し、征服時と反乱鎮圧以外は祖国フランスで生活していました。そして、彼自身は常にフランス語を使っていたこともあり、彼は確実にフランス人または、フランス語を話すヴァイキングの末裔といった方が正確な理解なのだと思います。

3.イングランドVSフランス?

上述のようにウィリアム征服王が占領したイングランドはイングランドという国ではなく、フランスの一豪族に過ぎないため、フランスの領主の勢力争いとも言えます。


このイングランド征服を皮切りに始まる、ノルマンディー公の勢力拡大は、さらに政略結婚で続けられるのですが、それがフランス王位も含めての領土継承の戦いに発展していきます。1453年になって百年戦争終結がすると、フランスでのほとんどの領土を失う事になったイングランド王家は、そのときに初めてイングランドという国の領主となったと言えます。