英仏百年戦争物語 5:エドワード3世の試練

1. イングランドの複雑な事情

1338年、エドワード3世は、フランスのフランドルに上陸し、1339年に本格的なフランス領への侵攻を始めるものの、フランス王フィリップ6世に相手にされず、本格的な合戦に発展しませんでした。1340年になると、軍資金が底をついたことから、エドワード3世は、早くもイングランドに帰国せざるを得なくなります。

エドワード3世は戦争を行う中で、イングランドがフランスに比べて国力があまりないことから、常に軍事費の調達に苦心していました。
実は、戦いが起こっていたのは、フランスだけでなく、百年戦争勃発の原因ともなっているスコットランドでも、まだ続いていました。エドワード3世のサポートで征服したベイリアルが、いまだに旧支配者のデイビッド(2世)派との戦いを繰り広げていたからです。

ベイリアルという貴族は、軍事面の資質では、優れた能力を発揮した人物でしたが、政治的なセンスは持ち合わせていなかったようで、常に反乱を起こされ、スコットランドの主要都市であるパースが敵に囲まれるなど、窮地に立たされていました。

そのため、戦争が始まってもエドワード3世は、思うように兵を集められないばかりか、やっと軍事行動を起こしても、その弱点をフランス王フィリップ6世に見透かされて、時間稼ぎをされるなどして、軍事費が底をついたり、補給が途絶えてしまっていました。

2. イングランドの海戦勝利

1340年6月、フランドル沿岸のエクリューズで大規模な海戦が行われました。

フランスが、イングランド上陸の作戦を打ち立てて、400隻の船に兵力2万でもって攻撃を開始したのです。
これに対して、エドワード3世は必死に兵をかき集めるものの、装甲兵と弓兵を集めても約2500ほどしか集まりませんでした。しかし、船の方は160隻と比較的数は揃うことができました。

そして、やはり戦いは、数では決まらない所が面白いです。

フランス海軍が3つに分かれて攻撃を仕掛けてきたのを見たイングランド海軍は、括弧撃破でもって、あっさりと圧倒的有利だったフランス海軍を打ち破ってしまいます。この戦いで、イングランド軍は、敵軍の総数の半分にあたる200隻の帆船を捕獲しています。

これに勢いを得たエドワード3世、ついにフランスへ軍事行動を開始するのですが、先軍として送っていた1万5千がサン・オマーの地で、フランス軍に打ち破られてしまいます。その後、エドワード自ら総軍を率いて進むものの、フランス軍が大兵力でもって堅く城に籠もって守るなどして、応戦したため、うまく進めずに、膠着状態に陥り、結局教皇の仲介で、休戦を結んでしまいました。

フランスを倒すためとはいえ、膨大な軍事費をかけてまでして遠征して、それが無に帰してしまった痛手は大きかったようですが、イングランドは更なる戦争に参加する事になってしまいます。

それが、ブルターニュ継承戦争です。

3. さらなる後継者争い

少し話が複雑になってしまいますが、百年戦争は、スコットランド、フランス、ブルターニュの3つの領地で、後継者争いが起こったものです。

ブルターニュでは、ブルターニュ公ジャン3世が子供を残さずに死んでしまい、その異母弟のモンフォール伯と、姪のジャンヌの二人に王位継承の資格が残されていました。

しかし、姪のジャンヌは、すでにフランス王の甥(ブラワ伯シャルル)と結婚していたため、すでに勢力図は決まってしまっていたので、逆にモンフォール伯は、イングランド王に支援を求めるべく、イングランド王のフランス王位継承の資格を認め、全面的にエドワード3世側につきます。

これによって、英仏両国の溝はさらに深まることになり、ブルターニュも含めて、戦争は多角的な闘争へと発展していきます。

英仏百年戦争物語 4:出兵準備

1. 350万 VS 1600万の戦争

1337年11月1日、イングランド王のエドワード3世は、フランス王位を継承したヴァロワ朝の創始者フィリップ6世に挑戦状を送り、いよいよ英仏間で百年戦争が開始します。
このとき、15歳でイングランドの王座に就いたエドワード3世は、すでに25歳になっていました。財政難への対処や議会との駆け引き、軍歴のどれを見ても、心身ともに以前とは見違える大人に成長していました。

しかし、百年戦争当時の両国の国力の差はかなり開いていました。イングランド(ウェールズ含む)の人口はおよそ350万人。それに比べて、フランスは1600万人と、統計上の差が大きく、イングランドは、実際ほとんどフランスのブルターニュ公や、ブルゴーニュ公などの大きな土地を領した貴族くらいの規模で、フランスと並ぶほどの国には発展していなかったと言われています。

人口が国力のすべてではありませんが、隣国間の戦争において、人口の多い国が兵力や経済力で優位に立ちやすいことは容易に想像できます。それにも関わらず、エドワード3世が、自国の4~5倍ほどの大国を相手に宣戦布告したのは、大変興味深いと思います。
エドワード本人に勝機があったのかは、知る由もありませんが、勝つ見込みがないのに始めたとはあまり考えられません。

2. エドワード3世の計略と政治

ちなみにエドワード3世は、百年戦争が始まる前に、将来の英仏間の開戦を予想していたのか、フランスに布石を打っています。
それは、フランスへの羊毛の輸出の禁止でした。これにより、フランドル地方の毛織物業が大きな打撃を受けます。そして、労働者を中心にフランドル伯への不満が高まり、内乱に発展します。これによって、貴族が親仏派、市民が親英派と分かれて戦う事になるのですが、これ一つを見てもエドワード3世の計略は冴えわたっていました。

ただ、それでもイングランド側には、開戦してから、幾つか困難に直面します。一番大きな問題は、軍費の捻出でした。
イングランドは、当時フランスとは違い、貴族の反対や分裂はありませんでした(後の薔薇戦争まで)。その代わり、イングランド王と議会の間での意見の衝突や不一致があり、それまで多くの王が、議会との話し合いを重視していました。
そして、この軍費を出すのにエドワード3世は、様々な手段でもって、資金を調達し、軍の派遣をこぎつける状態でした。まず、羊毛の最低価格を決め、さらに特定の商人に取引を許可する事で、価格を上げて収入を増やします。さらに、その羊毛の貿易の特権をイタリア商人に売り、他に動産税を取り入れるなど、次々と政策を打ち出します。

3. イングランド軍の出兵

これらの政策によって、エドワード3世は軍資金を得て、1338年ようやくエドワード3世は、何とか集めた3350名の兵を引き連れて、イングランド軍の第一回遠征が始まるのですが、フランスで落ち合うはずだった諸侯に理由をつけて渋られ、結局大陸への出兵は翌年1339年の7月になります。

ちなみに、話は少し前後するのですが、百年戦争の開戦の7年前、1330年3月4日、ウェストミンスターでフィリッパが男児を出産しています。
この男児が、後に漆黒の鎧を着て、戦場で勝利し続けることになるエドワード黒太子(Edward, the Black Prince)で、イギリスの戦史上に名を残す人物です。

英仏百年戦争物語 3:英仏百年戦争へ

1.スコットランドの武人たちの死

1329年にロバート・ブルースが死去して、弱冠5歳の息子デイビッドが即位し、デイビッド2世と名乗ります。

更にエドワード3世にとって、朗報はこれだけではありませんでした。ロバート・ブルースの家臣の中でも戦闘経験を積んで、並外れた戦上手だったジェームズ・ダグラスが、戦死したのです。
主君ロバート・ブルースが死ぬ直前に自分の首を聖地エルサレムに運ぶように遺言を残していたので、その遺言を果たすべく、ダグラスは聖地へ向かいます。しかし、途中のフランドルでカスティリア王とグラナダ王の戦闘に参加して、その戦闘で部下と共に敢えなく討ち死にしてしまったのです。

2.転機となったスコットランド遠征

これによりエドワード3世は、スコットランドが弱体化しているものと考え、スコットランド王位継承資格を有するスコットランド貴族エドワード・ベイリアルに経済的支援を行って、このベイリアルにスコットランドへ遠征させます。
ちなみに、エドワード・ベイリアルは、ロバート・ブルースが即位する前の王だったジョン・ベイリアルの息子です。父親のジョンは、エドワード1世(3世の祖父)に徹底的に打ち破られて、王位を捨てた上に、ロンドン塔に幽閉されています。
そのため、息子ベイリアルの前半生は、悲劇の連続で、ロバート・ブルースがスコットランド王に即位した事で、彼の存在はほとんど歴史から消え去られていました。

しかし、エドワード・ベイリアルは、実は軍事的才能に恵まれた武将でした。ほとんど戦闘経験がないにも関わらず、この悲劇な境遇に育った47歳の男は、エドワード3世の支援を受けて、ベイリアル家復活の遠征に乗り出します。

何とか1500人の兵をイングランド領内でかき集めたベイリアルは、海路でスコットランドに向かいます。
これは、議会の反対を予想したエドワード3世が、議会側に知られないようにするために、ベイリアルに指示したためと言われています。

3.華麗な戦術のダプリン・ムーアの戦い

スコットランドに到着したベイリアルに対して、デイビッド王の側近は、2万とも3万とも言われる兵力をかき集めました。そして、アーン河の畔で両軍は対峙するのですが、その夜ベイリアルは、夜襲をかけて、敵に大打撃を与えます。

これにより、寡兵と侮っていたスコットランド軍も徹底的にベイリアルを打ち破る勢いで、いよいよ戦端が開かれることになります。ベイリアル軍1500人 VS スコットランド軍2万人の戦い、ダプリン・ムーアの戦いです。
ベイリアルは、スコットランド軍を峡谷に引きずり込みます。そして、そこで戦いが始まるのですが、ここで後世に残る戦術がベイリアルによって、披露されることになります。

ベイリアルは、500人の騎士を中央に配置して、左右に500人ずつの長弓兵を斜めに配置して、敵を包み込むように陣形を作ります。これは、ちょうど鶴翼の陣と同様の形で、左右の翼が弓隊になっています。

戦闘を開始すると、2万のスコットランド軍は、その兵力を活かして、突撃を敢行します。それがとても激しい攻撃だったらしく、ベイリアル軍は、崩壊寸前まで押されますが、ギリギリのところで持ち堪えます。そして、ベイリアル軍の左右の長弓兵が次から次へと放つ矢に、スコットランド兵は、みるみるうちに倒され、焦ったスコットランド軍側は、更なる部隊を繰り出して押し出そうとするのですが、それが今度は前後に味方の部隊が入り乱れて大混乱を引き起こし、収拾不能になってしまいます。
冷静なベイリアルは、徹底的に長弓兵に手を休まずに射撃を続けさせ、最後にはスコットランド軍の司令官も討ち死にし、スコットランドは大敗を喫します。

このダプリン・ムーアの戦いは、奇跡と言っても過言でないくらいのベイリアルの大勝利であり、スコットランドに大きな衝撃を与えます。
その後もベイリアルは戦闘を続けて順調に勝利するものの、部下の裏切りに合い、結局身一つでイングランドに戻り、エドワード3世に再度支援を求めます。

4.英仏百年戦争の勃発

これに応じたエドワード3世は、自ら兵を率いて北上し、デイビッドの家臣の指揮する軍を、ベイリアルの戦術を真似るかの如く、長弓兵を駆使して、ハリドン・ヒルの戦いで打ち破ります。このときは、イングランド軍1万に対して、スコットランド軍は1万5千もの兵力を持っていました。

このようなエドワード3世とベイリアルの共同戦線で、デイビッド2世は、遂にフランスに逃亡してしまいます。そして、それを受け入れたフランス王フィリップ6世は、エドワード3世に対して、イングランドがフランスに持っていた領土(アキテーヌ)の没収を宣言します。

これに応じるが如く、エドワード3世もフランス王フィリップ6世に宣戦布告。

これが、百年戦争の幕開けです。いよいよ100年に及ぶ戦争が両国の間で繰り広げられることになります。

【コラム4】松永久秀は悪人か?

ネットや書籍で戦国時代の三好家に仕えた武将、松永久秀を紹介するとき、「梟雄」(荒々しく狡猾な人)や「三大悪人の一人」などの言葉で説明されることがあります。

その理由については、主に将軍殺し、東大寺(大仏殿)焼き討ち、主家三好家の乗っ取り、という3つの点に言及されることが多くあります。今回は、それらの点についてお話します。

  • 久秀は将軍足利義輝を殺したのか。

まず、久秀は、永禄の変(1565年5月19日)(※1)が起きた際、京にはいませんでした。よって、久秀の悪行とされる理由は、嫡男松永久通に将軍殺害を指示したから、という言われ方をしていますが、その証拠はありません。親が子に指示した証拠となると、対面での指示の可能性もあるため、証拠を見つけられない可能性が高いと言われてしまうかもしれませんが、証拠がないのに松永久秀の指示と言いきることもできないと感じます。

また、永禄の変の2年前の1563年、久秀は既に家督を久通に譲っています。(久秀が家督を譲った後も松永家中の事実上の首長的地位にあるとは言え)久通自身の判断の可能性も十分にあり、実際に久通は実行者であるため、久秀に罪をかぶせるべきか、疑問が残ります。

さらに、永禄の変の直後、久秀は興福寺一乗院の覚慶(後の足利義昭)を助命しています。(久秀が覚慶を害さないとの誓紙を提出し、覚慶から久秀へ頼みとしているとする旨の書状が出ています。)これは、兄の将軍足利義輝や弟の鹿苑寺周暠が殺害された流れに反する行動であり、久秀は、主家の三好義継や子の松永久通とは異なる行動を取っている点から、将軍殺害に賛成していなかったのではないか、とさえ感じてきます。

  • 久秀は東大寺を焼き討ちにしたのか。

東大寺(大仏殿)の焼失は、1567年10月10日、当時三好家は内部分裂により、三好三人衆が松永久秀の居城の多聞山城に押し寄せ、包囲していたときに起きました。夜、久秀が三人衆が本陣を置いていた東大寺に夜襲をかけた際、東大寺の幾つかの建物で火が上がり、大仏殿の回廊に火が回り、午前2時頃に大仏が焼失しました。そして、三人衆はその夜襲により、東大寺から離れた場所に撤退します。

この焼失の詳細な経緯は諸説あり、三好三人衆の兵が撤退するときに火を放ったとするものや三人衆の中にいたキリスト教徒が信仰上の理由から放火したものなども伝えられていますが、どれが真相かは分かっていません。

いずれにしても、久秀は、1559年の大和入り以来、8年間、東大寺を含む奈良を支配・保護してきており、それが三好三人衆の侵入に対して反撃する際に、敵の本陣だった東大寺の大仏殿が何かしらの事情で焼失してしまったものであることが分かります。元々大仏殿を焼く予定であれば、自領内かつ居城にも近いため、もっと早い時期にいくらでも焼き討ちなどできたものですので、悪人の根拠とされるような、悪意をもって東大寺を焼き討ちしたものではないことが分かります。

  • 久秀は主家を乗っ取ったのか。

まず、三好家を「乗っ取った」という定義にもよりますが、三好長慶から信頼され、三好家中で強い影響力を持ったという点は様々な資料から確認できます。しかし、それは同じく三好家臣の篠原長房も三好家中で大きな影響力を持ったことは確認できており、実際に篠原長房は、三好家の家督を継いだ主君三好義継と対立し、三好三人衆まで篠原長房に味方したため、義継は当主であるにも関わらず出奔し、久秀と共に織田の軍門に下っています。その際、義継は久秀に同心し、久秀が三好家にとって「大忠」であるとまで言っています。

また、時代は遡りますが、他にも久秀が三好義興(主君三好長慶の嫡男)を毒殺したとする説など、三好一族の不幸を久秀によるものとする話がありますが、どれも当時の資料からは確認できず、後世になって作成された物語でしか確認できないため、創作されたものと考えられます。ちなみに、義興は病気になってからの過程が記録に残されており、病死と考える方が自然と思われます。

  • 逆に久秀は悪人ではないと言えるのか。

戦国武将として、何を基準にして「悪人」とするのかにもよりますが、久秀が、1577年8月、当時仕えていた織田信長を「裏切り」、同10月に、織田軍に包囲されて滅亡したという点では、戦国時代の多くの「悪人」の一人かもしれません。

ただ、最後の裏切り以外に、久秀の「悪人」行為はなく(※2)、「梟雄」や「三大悪人の一人」と呼ばれるほどなのか、という点で疑問は残ります。

(※1)永禄の変:1565年5月19日、第13代将軍足利義輝が三好義継が松永久通や三好長逸などと共に1万の兵力を従え、京の将軍御所を襲撃し、足利義輝、その弟の鹿苑寺周暠などが殺害された事件。言い伝えでは、兵法家の塚原卜伝から免許皆伝を受けていた足利義輝は、襲撃当日、御所にあった足利家の名刀を多数畳に刺し、多数の敵兵を斬り倒し、刃こぼれするたびに、名刀を1本ずつ抜いては戦い、最後は力尽きて三好兵に殺害されたと言う話が残っています。(個人的には後世の創作のように感じますが、それだけ剣術の達人であったことを伺わせる話かと思っています。)

(※2)1565年に久秀が義継と対立したとする話がありますが、これは覚慶を助けた久秀をよく思わない三好三人衆のクーデターにより、久秀が追放されたものであり、特に久秀が主家に対して挙兵したものではありません(実際に2年後に主君三好義継は久秀側につき、信長に与したことは上述のとおり。)。また、1568年の信長包囲網の際、信長を裏切ったという話は事実ではなく(よって裏切った後に降伏して茶器を献上した話も事実ではありません。)、その時期を通じ、久秀は継続して信長の指示の下で家臣として、行動しています。

英仏百年戦争物語 2:エドワード3世の登場

1.父親をクーデターで廃位させた15歳の王

(『エドワード3世(18世紀)』(Edward III (18th century) )(wikimedia))

1327年1月、エドワード3世が15歳の若さでイングランド王位を継承します。前年1326年に父親のエドワード2世は妻イザベル(エドワード3世の生母)のクーデターによって、廃位させられたあげくに謀殺されているのですが、そんな弱々しい父親に比べて、このエドワード3世こそ百年戦争開始から50年間王位に居続けて、イングランド軍側を圧倒的優位に導いた君主でした。特に戦いでは、趨勢を決める場面で勝利を収め、フランス軍を追い詰める事になります。
しかし、その栄光は、彼が長い辛い試練を乗り越えて得た産物でした。

2.強き国スコットランド

まず、エドワード3世の王としての最初の仕事は、スコットランドとの戦いでした。
父親エドワード2世が、ロバート・ブルース率いるスコットランド軍にバノックバーンの戦いで大敗を喫して、その後もただ敗北し続けたため、エドワード3世が後を継いだときには、イングランド北部では多くの土地を失っていて、常にスコットランド軍の侵略の危険にさらされていました。
ちなみに、バノックバーンの戦いは、スコットランド軍1万(ロバート・ブルース)に対して、イングランド軍3万(エドワード2世)で戦闘を行ったにも関わらず、単調な戦法で正面突破を試みてイングランド軍が大損害を被ってしまう、といういきさつでした。

ちなみに、このロバート・ブルースは、かの有名な映画「ブレイブハート」のウィリアム・ウォレスと共に戦い(映画でもロバート・ブルースは登場します。)、そしてウィリアム・ウォレスの死後、長い闘争の末に独立を勝ち取って王位に就いた人物です。

(ロバート・ブルース)© Ad Meskens / Wikimedia Commons

3.後の英雄には屈辱の初陣

しかし、ロバート・ブルースはこのときすでに老齢で病気がちになっていたので、家臣のジェームズ・ダグラスが攻めてくるのですが、これに対して大軍を率いて迎えたエドワード3世には、試練のときでした。

彼はまだ若干15歳という事もあって、スコットランド独立を勝ち取った歴戦の武将、ダグラスにまさに子供のように翻弄されてしまいます。エドワードは、敵の所在が掴めずにあちこちでダグラスに略奪を繰り返されては、イングランドの北部の土地をさ迷います。そして、彼は軍を幾つかの部隊に分けて敵を待ちますが、それでもダグラスを捉えることができずに、逆に家臣が捕虜になるなど、ダグラスの相手にはなりませんでした。

最後にはスタンホープ・パークの戦いで、僅かな手勢を率いたダグラスに、大軍のイングランド軍の本陣に奇襲をかけられ、エドワード3世は家臣と共に必死に逃げるという辛い初陣を経験することになりました。
結局、ダグラスは、エドワード3世を好き放題に翻弄したあげくに、スコットランドに悠々と戻っていきます。

(『スタンホープ・パークの戦い』(Battle of Stanhope Park)(wikimedia))

やむを得ず、エドワード3世は軍を引き揚げて、城に帰還するのですが、やはり体裁としては、かなり悪かったようです。(しかし、その後スコットランドのダグラスは、イングランド側と話し合い、次期スコットランド王のデビッド(4歳)に、エドワード3世の妹のジョアン(7歳)を嫁がせて、和平を結んでいます。)

4.ヴァロワ朝の始まり

1328年1月、エドワード3世(15歳)はエノー伯の娘フィリッパ(13歳)と結婚します。

ところが、その翌月に重大な異変が起きます。
フランスのカペー朝のシャルル4世(端麗王)が、子供を残さずに死去してしまったのです。これによって、従兄弟のヴァロワ家出身のフィリップが王位を継いで、フィリップ6世と名乗ります。(ヴァロワ朝の始まり)

問題は、このフィリップ6世が5代前のフィリップ3世の孫で、イングランにいるエドワード3世も、実はそのフィリップ3世の直孫にあたり、二人の王位継承資格は対等なものでした。
そのため、そのイングランドのエドワード3世を無視して、伯になっていたフィリップがフランス王を名乗ったので、エドワード3世は異議を唱えますが、イングランドにて、スコットランド相手にてこずっている彼には、どうしようもできません。

関係は険悪なまま時は過ぎていくのですが、翌年1329年6月、スコットランド王ロバート・ブルースが死ぬ事で、英仏の時代の歯車は大きく動き出します。

英仏百年戦争物語 1:勝者

1.英仏百年戦争の勝者は英仏両国

個人的には、この百年戦争の話は、高校の世界史の授業で苦境に立たされていたフランスにジャンヌ・ダルクが突如現れて、唯一の砦であるオルレアンを解放して、劇的に挽回し、最後には勝利に終わったと教えられた記憶があります。

まず、このフランスの勝利で終わったという話で、現在のイギリス人とすでに食い違いがあります。イギリスでは、百年戦争は「イングランドの勝利に終わった。」と記録されていて、シェークスピアもその幾つかの著作の中でイングランドの勝利を何度か取り上げています。
実はこの百年戦争は、途中で何度か和睦が結ばれているのですが、イギリスの教科書では、百年戦争の歴史は、いわゆる日本人やフランス人などが知る百年戦争の途中で合意した和睦をもって終結したものとなっています。よって、その後の英仏間の戦闘はイギリスの教科書では百年戦争に含まれていません。そのため、イングランドの圧勝のまま和睦となり、幕を閉じた一連の戦いまでを、イギリス人は百年戦争と考えているのです。

さらに、百年戦争は、後世の人の目から歴史を見たときに、「百年戦争」と区切っているだけでして、実際には両国間で戦闘が行われたのを、20世紀に入ってからそう呼んだものです。

ちなみに、ジャンヌ・ダルクはもちろん現在のイギリス人の間にも認識されていて、その名前を知っていますが、それはイングランド側の政治の混乱に乗じて、フランスが息を吹き返したという話になっています。

2.ウィリアム征服王について

これは、百年戦争というよりもイングランドの歴史についてですが、このウィリアム征服王がヘイスティングスの戦いで勝利を収めるまで、イングランドはヴァイキングに絶えず襲撃されて不安定な時代を迎えていたといわれていますが、このウィリアム征服王こそ、文献で証明されるヴァイキングの血を引く者です。これによってイングランドが始まったというよりも、ヴァイキングの一族に完全に掌握された歴史と言えると思います。

ただ、このウィリアム1世は、正確には「ノルマンディー公ウィリアム」と言ったため、フランスのノルマンディーに領土を持つ領主(ロロを初代に持つ一族)でした。それが、遠征してイングランドを征服したに過ぎず、当初の本拠地はもちろんフランスのノルマンディーで、征服したイングランドの土地は、ほとんど植民地としての役割を果たしていました。
実際ウィリアムは常にフランス側に滞在し、征服時と反乱鎮圧以外は祖国フランスで生活していました。そして、彼自身は常にフランス語を使っていたこともあり、彼は確実にフランス人または、フランス語を話すヴァイキングの末裔といった方が正確な理解なのだと思います。

3.イングランドVSフランス?

上述のようにウィリアム征服王が占領したイングランドはイングランドという国ではなく、フランスの一豪族に過ぎないため、フランスの領主の勢力争いとも言えます。


このイングランド征服を皮切りに始まる、ノルマンディー公の勢力拡大は、さらに政略結婚で続けられるのですが、それがフランス王位も含めての領土継承の戦いに発展していきます。1453年になって百年戦争終結がすると、フランスでのほとんどの領土を失う事になったイングランド王家は、そのときに初めてイングランドという国の領主となったと言えます。

【コラム3】明智光秀の意外な一面

  • 誠実に描かれる明智光秀

1582年6月2日に京の本能寺で織田信長を討った明智光秀について、様々な書籍や歴史モノのテレビ番組などで、信長から酷い仕打ちを受けながらも、誠実かつ真面目に生きる姿が描かれています。

しかし、実際の明智光秀の行動を読み取ると、誠実で真面目な面ではなく、意外な一面が浮かび上がってきます。

  • 比叡山延暦寺焼き討ちに積極的な光秀

1571年9月2日、光秀は、比叡山の北にある雄琴城を拠点とする豪族の和田秀純に、以下の書状を送っています。

「仰木の事は是非ともなてきり(なで斬り)に仕るべく候。やがて本意たるべく候」(仰木は必ず(是が非でも)なで斬りにしなければならない。すぐにそうなるだろう。)

仰木は延暦寺の土地を意味しており、光秀が積極的に延暦寺の地を攻略しようとする姿が見えてきます。この10日後、織田軍は延暦寺の焼き討ちを決行し、多くの人たちを殺害しています。

なお、近年、考古学者が延暦寺を調査したところ、当時の延暦寺の建造物の多くは他に移転しており、焼失したのは延暦寺の中でも2つの建物だけだったと言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その1

延暦寺焼き討ちの後、恩賞として延暦寺の土地をもらった光秀は、その土地の一部を巡り、朝廷との間で揉め事に発展します。

その際、光秀は、信長のところに説明に来ていた天皇の使者に、夜、二貫文(現在の価格で約24万円)を届け、使者を驚かせています。滞在中の旅費や宿泊費という理由で届けていますが、明らかな賄賂と言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その2

1571年12月、光秀は、当時仕えていた足利義昭に暇乞いをして、立ち去ろうとします。その際、光秀は同僚に書状を出し、21貫200文(約250万円余)のお金を2回送り(合計約500万円)、さらに(馬につける)鞍を進呈するので、出家させてほしいと足利義昭に伝えてほしいと書いています。

当時、信長と足利義昭との間に亀裂が生じていて、出家という理由をつけて信長側につこうとする光秀の考えがあっての行動ですが、お金とモノで了解を得ようとしていたようです。

  • 本能寺にほとんど人はいなかった

(これは光秀が優秀な武将である一面を示す話ですが)本能寺の変の当日(1582年6月2日)に、本能寺に押し入った明智光秀の武士が後の時代に残した記録に、広間には一人も人がいなかったと書かれています。実際には、当時は約200人が寺の中にいたと言われますが、ほとんどが女中や側仕えの若い侍で、戦闘に強い武士は少なかったとのことです。

こうした手薄な警備体制で宿泊している信長の状況を十分に把握した上での光秀の行動だったことが分かります。そして、信長の嫡男である信忠も討ち取ったところまでは、光秀の武将としての能力は高く評価されるものと感じます。

【コラム2】源平合戦の兵力

  • 歴史家たちの懸念

歴史研究者の本を読むと、よく源平合戦や鎌倉時代などの兵力が異常に誇張されているという記事をよく読みます。鎌倉時代の公式の歴史書とも言われる『吾妻鏡』ですら、頼朝が挙兵後に数百人を率いていたのに、突然数万人に膨れあがり、さらに一時的に20万人と言った兵力になったという記載が出てきます。

数日から数週間でそんな人間が増えることも現実的ではないので、考古学調査結果や当時の風潮、当時の貴族の日記などから兵力の規模を調べてみました。

  • 鎌倉時代(最盛期)の御家人は約2900人

まず、最盛期(14世紀初頭)の鎌倉の全体人口及び武家人口について、考古学者による鎌倉の史跡発掘調査の調査結果を見てみました。やはり800年程前のことなので精度に限界があり、範囲での結果であることから、最大値を見てみます。すると、

鎌倉全体の人口:約10万

うち武家(家族・郎党を含む):約2万9千人

うち戦闘員:約1万7500人(武家から家族約1万1500人を除いた数字)

うち御家人(武家屋敷主人):約2900人(戦闘員から御家人1人に対する従者平均5人の比率を出し、それを基に従卒者を除いた数字)

鎌倉時代の最盛期の御家人は約2900人という数は、鎌倉時代初期に、頼朝が上洛にあたって調べさせた御家人2096人という数字に近いことが分かります。鎌倉政権の初期がおよそ2000人、その後、最盛期に約2900人くらいになっていったと理解することができます。

  • 頼朝の挙兵時の兵力は約90人、鎌倉入りは約2000人前後、政権確立時は約1万人+α程度

頼朝が挙兵したとき、その兵力は約90人と言われています。その後、頼朝が鎌倉入りしたとき、御家人は311人でした。歴史家によると、当時の合戦の実態として、兜持ち、旗指や馬子などの役目をする従者が御家人を常に支えていました。それらの従者の人数は、御家人によって1人もしくは10人など、経済力によって異なりますが、中央値である5~6人で計算すると、御家人本人と併せ、頼朝の鎌倉入りの兵力はおよそ2000人前後という規模だったことが分かります。

さらに、先述のとおり、平氏滅亡後に政権を確立させ、上洛のために調べた御家人の数が約2000人ですので、全兵力は、およそ1万前後か1万数千人といった規模であることが分かります。鎌倉時代は、農業の生産性も低く、貧しい御家人も多くいたことを考えると、これよりも少ない可能性もあります。

  • 一ノ谷の合戦の源氏軍はせいぜい3千人

源平合戦を知る文献には、『吾妻鏡』以外に、貴族の日記があります。一ノ谷の合戦当時、関白だった九条兼実は、その日記の中で、京にて、一ノ谷の合戦に向かう源氏の軍勢が2手あり、視覚的に片方が1千、もう片方が2千といった程度しかいない、と現地の軍勢の状況を残しています。

九条兼実は、源氏の軍勢の少なさをとても気にしていました。しかし、結果的に合計3千人程度の源氏軍が平氏軍を打ち破っています。ここで詳細は書きませんが、結局、平氏軍側も3千人と同格の兵力に過ぎなかったのではないか、と考えています。

  • 一所懸命の世界

「一生懸命」の語源となった1つの土地を命がけで守る「一所懸命」という言葉にあるとおり、源平合戦のあった時代では、土地は経済の中心であり、各地の武士団は自分たちの資産である土地を守ることを最優先にしていました。

つまり、頼朝の下の御家人と言えど、平氏打倒のためとは言え、あまり多くの兵力を派遣することはできず、自分たちの土地を奪い取られないためにも、それなりの守備兵を残していたものと考えられます。

  • 歴史のリアルさ

今回、歴史書『吾妻鏡』の情報ではなく、考古学の調査結果や当時の風潮、現地を知る貴族の日記などからの情報を書いてみました。個人的には、後者の情報が、より歴史のリアルさを伝えてくれるように感じています。もちろん、歴史書『吾妻鏡』なくしては、分からない当時の事実も多いため、結局は一つ一つの事実を様々な角度から見る必要がありますが、歴史の生々しさにどれだけ近づけるかが歴史学の魅力と思いました。

【コラム1】「鎌倉幕府」は存在したのか。

  • 「幕府」という言葉

日本には、歴史上、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と3つの幕府が登場します。しかし、3つの幕府がそれぞれ政治を行っていた時代に、「幕府」という言葉はあまり普及していませんでした。

厳密に武家政権の政庁や体制を表す「幕府」という意味で使用されるのは、室町時代になってからであり、それが普及するのは江戸時代後期(幕末又は明治時代とも言われる。)でした。「幕府」という言葉は、実際に該当する時代にその言葉が使われたことはほとんどありませんでした。つまり、現在使われている3つの幕府は、後世になってから、それぞれ権力を持った一族の拠点の土地を幕府という名前で表したものになります。

また、江戸時代に入って将軍の居館を「柳営」とも言っていましたが、それも、今の「幕府」という意味とも少し違っていました。また幕府は、物理的な将軍の宿館という意味に由来します。

  • 「幕府」は中国が由来

そもそも幕府は、中国から輸入された言葉で、古代中国において、王から命じられて遠征中だった将軍が陣営として幕を張り巡らせて設置した幕舎のことを、幕府と呼んでいました。その際、遠征中の将軍が、本城にいる王に対して、細々とした判断を仰ぐと、機敏な判断ができなくなるため、そのような将軍には、軍の指揮権を含めた様々な権限を与えられていたことから、遠征先での統治や軍団の運営を円滑に行うための体制を意味して「幕府」と呼んだことが由来です。

  • 頼朝が作った大倉御所は他の家を壊して作ったもの

1180年10月15日、源頼朝が鎌倉の居館である大蔵御所に入ってから、頼朝の鎌倉を中心にした政権が始まったと言われています。

なお、頼朝の相模国入りは、同年10月6日で、しばらくは民家を宿館として邸宅を建てる土地を探し、一度は父である源義朝の旧跡のある亀ヶ谷(かめがやつ)という地に邸宅を建てようかと検討したものの、同地は土地が広くなく、既に家臣の三浦義実が寺を建立していたことから諦め、大倉御所の地になったとのことです。ちなみに、大倉御所は、約200年も使用した、ある御家人の家が、安倍晴明(あべのせいめい)の府を押してあるため一度も火災にあったことがないという話から、その御家人の家を取り壊し、大倉御所の建設に使われたと言われています。

  • たまたま選ばれた征夷大将軍

さて、幕府というと必ず言及されるのが征夷大将軍です。多くの人が、征夷大将軍になると、幕府という体制を築いて、政権を持つというイメージを持っているかと思います。

しかし、実際には、頼朝が1192年に上洛した際、特に征夷大将軍を指定して朝廷に要求したわけではなく、大将軍という地位クラスを朝廷に要求したと言われています。

朝廷内では大将軍のポストとして、惣官、征東大将軍、上将軍、征夷大将軍の4つを検討します。その際、朝廷の高官たちは、惣官は平宗盛(平清盛の三男・後継者)が任命されて滅ぼされ、征東大将軍は源義仲(源頼朝の従兄弟にして頼朝と対立)が任命されてこれも滅ぼされ、いずれも縁起が悪く対象から外します。また、上将軍は日本史上で先例がないため、先例主義である朝廷の高官たちは、これも対象から外します。最終的に坂上田村麻呂などの活躍もあり縁起の良かった征夷大将軍が選ばれたと言われています。

このように、征夷大将軍というポストは、偶然選ばれたものであることが分かります。

  • 頼朝の征夷大将軍は、たったの2年

頼朝は、1192年に任命された征夷大将軍を、そのたった2年後の1194年に辞任します。その理由は分かっていません。

そもそも頼朝が大将軍の地位を要求した理由として、大臣になると京への上洛を求められる可能性があるため、大臣などを除き、権威ある高い官職を求めて大将軍を要求したと言われています。そのため、征夷大将軍はもちろん、大将軍のいずれの地位にも固執していたわけではなく、権威付けのための任官だったと考えられます。

  • 征夷大将軍になると政権の首長になれるという構図は後世の風習

そして、1199年に頼朝死去を受けて、2代目の源頼家が政権を継承するも、征夷大将軍への任官は1202年と継承から3年後のことでした。

このことから、2年間で辞任した頼朝と頼家は、2人とも特に征夷大将軍を政権首長者の根拠としていたわけではないことが分かります。

こうした点を踏まえると、征夷大将軍に任命されることにより、政権首長者の座を得るという構図は、その後の実績の積み上げにより、結果的に作られていったものということが分かります。

  • 「鎌倉幕府」とは便宜上の言葉

結論として、「鎌倉幕府」という言葉は、便宜上使われてきたものということが分かります。頼朝が鎌倉で政治を行った時代には、後の時代の幕府で想像される政庁や体制、法などもあまり整備されておらず、むしろ武士で初めて京から大江広元などの文官を招き、少しずつ政権の基盤を作り始めた武士の集合体という姿が見えてきます。

当時の関東武士団には文字が読めなかったり、書けなかったりする人たちが多く存在していました。むしろ、頼朝が設置した公文所のメンバーには、京下りの文官以外で関東武士は足立遠元ただ一人しかいませんでした。

一方で、当時の京の貴族の日記には、関東武士の荒々しさや高い武術を恐れていることが書かれており、どちらかというと関東武士は武辺者という印象がありました。

  • 頼朝の残した歴史

頼朝がそのような武士たちを集めて戦闘に勝ち、鎌倉に居を構えて、命令に従わせることができたのは、源氏という貴種を重んじる当時の風潮に加えて、人間的な魅力が頼朝にあったものと想像されます。しかし、それも頼朝の死後に何度も起きた鎌倉の内紛(比企氏の乱、畠山重忠の乱、和田合戦など)が、当時の政権の不安定さを証明しているとも言えます。

ただ、頼朝がそうした武士たちを率いて初めて手にした権力は、それから700年近く武士の手元にありました。征夷大将軍への任命とは関係なく、この画期的な変化こそ頼朝の残した歴史だと感じます。

冒険の始まり

はじまりの始まり

 小学生4年生の頃、当時通っていた塾の昼食代としてもらっていたお金で、ご飯を買わずに司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を買って読んでいました。もちろん、自分のお腹は空いたのですが、何度か親にねだっても手に入らなかった本を読める充実感にとても満足していました。『項羽と劉邦』は、上中下の3冊だったので、3回の昼食代を使って本を買うと、それぞれすぐに読み終えていました。その後も、多くの歴史の本を読み漁り続けました。

 大学生の頃は、塩野七生の『ローマ人の物語』に夢中になっていました。子供の頃からの変わらぬ性分で、大学生になっても、当時のアルバイト代の多くを歴史の本につぎ込んでいました。また、通っていた大学では、著名な歴史学の先生たちの講義よりも、一人で蔵書の充実した図書館にこもる方がずっと楽しく、一応講義に出て話は聞くものの、一人で図書館に行くことが日課になっていました。

そして、違和感

 大人になってからも、留学や海外赴任などで他国へ行くたびに、それぞれの国の歴史を聞いては、日常にはない歴史の世界に浸っては楽しんでいました。

 ただ、最初は基本的な歴史を知ることに終始していたのが、やがて歴史の深みを知り始め、自分が見ていた歴史の姿は、現実的な歴史の姿と少し違うことに気づき始めました。

歴史の実像

 とは言え、何が具体的に違うと感じたのかと言われると、まず以下の点です。

  1. 死が身近にあること
  2. 兵力が誇大表現されていること
  3. 戦い方が地味なこと

 どれも戦いの場面に関連する点ではありますが、これは戦いだけでなく、当時の社会の空気感として、重要な要素になっています。そこら中で人が死に、軍勢は小規模で、歴史の転換期となる戦いは地味なやりとりで終わっていた実像が見えてきたのです。

終わらぬ冒険へ

 今回は、最初ということで具体的な話はせず、ブログを始めた背景だけ話させてもらいました。次回から、それぞれの時代、国/地域、人物たちについて書いていきたいと思います。

 これから歴史の授業やテレビの時代劇からは、なかなか知りえない歴史の一面に光を当てつつ、分かりやすく、歴史の世界を描いていければ、と思います。