1. 350万 VS 1600万の戦争
1337年11月1日、イングランド王のエドワード3世は、フランス王位を継承したヴァロワ朝の創始者フィリップ6世に挑戦状を送り、いよいよ英仏間で百年戦争が開始します。
このとき、15歳でイングランドの王座に就いたエドワード3世は、すでに25歳になっていました。財政難への対処や議会との駆け引き、軍歴のどれを見ても、心身ともに以前とは見違える大人に成長していました。
しかし、百年戦争当時の両国の国力の差はかなり開いていました。イングランド(ウェールズ含む)の人口はおよそ350万人。それに比べて、フランスは1600万人と、統計上の差が大きく、イングランドは、実際ほとんどフランスのブルターニュ公や、ブルゴーニュ公などの大きな土地を領した貴族くらいの規模で、フランスと並ぶほどの国には発展していなかったと言われています。
人口が国力のすべてではありませんが、隣国間の戦争において、人口の多い国が兵力や経済力で優位に立ちやすいことは容易に想像できます。それにも関わらず、エドワード3世が、自国の4~5倍ほどの大国を相手に宣戦布告したのは、大変興味深いと思います。
エドワード本人に勝機があったのかは、知る由もありませんが、勝つ見込みがないのに始めたとはあまり考えられません。
2. エドワード3世の計略と政治
ちなみにエドワード3世は、百年戦争が始まる前に、将来の英仏間の開戦を予想していたのか、フランスに布石を打っています。
それは、フランスへの羊毛の輸出の禁止でした。これにより、フランドル地方の毛織物業が大きな打撃を受けます。そして、労働者を中心にフランドル伯への不満が高まり、内乱に発展します。これによって、貴族が親仏派、市民が親英派と分かれて戦う事になるのですが、これ一つを見てもエドワード3世の計略は冴えわたっていました。
ただ、それでもイングランド側には、開戦してから、幾つか困難に直面します。一番大きな問題は、軍費の捻出でした。
イングランドは、当時フランスとは違い、貴族の反対や分裂はありませんでした(後の薔薇戦争まで)。その代わり、イングランド王と議会の間での意見の衝突や不一致があり、それまで多くの王が、議会との話し合いを重視していました。
そして、この軍費を出すのにエドワード3世は、様々な手段でもって、資金を調達し、軍の派遣をこぎつける状態でした。まず、羊毛の最低価格を決め、さらに特定の商人に取引を許可する事で、価格を上げて収入を増やします。さらに、その羊毛の貿易の特権をイタリア商人に売り、他に動産税を取り入れるなど、次々と政策を打ち出します。
3. イングランド軍の出兵
これらの政策によって、エドワード3世は軍資金を得て、1338年ようやくエドワード3世は、何とか集めた3350名の兵を引き連れて、イングランド軍の第一回遠征が始まるのですが、フランスで落ち合うはずだった諸侯に理由をつけて渋られ、結局大陸への出兵は翌年1339年の7月になります。
ちなみに、話は少し前後するのですが、百年戦争の開戦の7年前、1330年3月4日、ウェストミンスターでフィリッパが男児を出産しています。
この男児が、後に漆黒の鎧を着て、戦場で勝利し続けることになるエドワード黒太子(Edward, the Black Prince)で、イギリスの戦史上に名を残す人物です。