- 津田信澄の死に烏帽子親なのに「祝着」と述べる勝家
題目でほぼ全てを書いてしまっていますが、勝家は、最初の主君である織田信勝が信長に殺害されると、信勝の子で、当時まだ赤ん坊だった津田信澄の烏帽子親を務めます。
時は流れ、1582年。27歳となった津田信澄は、織田家重臣たちと四国攻めの準備をしていました。ところが、重臣たちは、本能寺の変の急報を聞くと、謀反を起こした明智光秀の娘婿である津田信澄も謀反へ関与しているのではないかと疑い、すぐさま兵を差し向けて、津田信澄を殺害します。謀反に本当に関与していたかどうかの真相は分かっていません。しかし、勝家は、烏帽子親を務めた津田信澄の死について、書状に「祝着」と書き、祝勝しています。
勝家は、信澄がまだ赤ん坊の頃から烏帽子親を務めてきたにも関わらず、その死に際し、特に感情が入ることもなく、むしろ「祝着」と言えるところに、勝家の冷淡さが伺えます。
- 秀吉を超える速度の「北陸大返し」
さて、一方、本能寺の変を迎えたときの勝家の動きです。その動きを比較するため、中国大返しで有名な羽柴秀吉の動きも一緒に追います。
6月2日 早朝、本能寺の変が起きる。(明智光秀が織田信長を京の本能寺にて殺害。)
6月3日 深夜又は4日早朝、羽柴秀吉が本能寺の変を知る。
6月6日 柴田勝家が本能寺の変を知り、加賀への帰国を開始する。(越中宮崎城内又は付近:京(山崎)から約330キロ)
同日 午後2時頃、秀吉が移動を開始する。(備中高松城:京(山崎)から約210キロ)
6月7日 秀吉、姫路城へ到着。(姫路城:京(山崎)から約110キロ(※約100キロ/日を移動))
6月9日 勝家が加賀に到着。(北庄城:京(山崎)から約150キロ(※約180キロ/3日間を移動。つまり60キロ/日で移動))
6月13日 秀吉、山崎に到着。山崎の合戦。(※平均すると30キロ/日で移動)
6月16日 勝家はいまだ加賀に滞在。先陣として、養子の柴田勝豊を出発させようとしたところ、山崎の合戦の急報が届き、出発取り止め。
(山崎の戦い(尼崎大合戰武智主從討死之圖)(wikimedia))
上記の動きについて、秀吉と勝家の動きを比べると、秀吉は「中国大返し」と言われる所以のとおり、たしかに高松城付近から姫路城まで約100キロを1日のうちに移動したため、その点は当時の移動力としては驚異的でした。
ただ、軍勢を集める目的もあったと思われますが、道中、織田信孝・丹羽長秀・池田恒興等の軍勢と合流し、京の山崎の地に着いたとき、出発してから7日ほど経過しています。つまり、秀吉の中国大返しは全体で平均約30キロ/日の移動でした。
一方、勝家は越中の宮崎城付近から加賀の北庄城までの約180キロを3日間で踏破し、約60キロ/日と秀吉の倍の速度です。実際、その速度のまま京に進めば、計算上は3日で到着し、6月13日の山崎の戦いに参加することは可能だったことは、興味深い点です。
いずれにせよ、勝家は越中から加賀までの移動は、秀吉の平均移動実績以上の速さでした。これは勝家の「北陸大返し」とも言うべき移動と言えるでしょう。
勝家の命運を分けた賤ケ岳の戦いは、また分けてお話したいと思います。