【コラム3】明智光秀の意外な一面

  • 誠実に描かれる明智光秀

1582年6月2日に京の本能寺で織田信長を討った明智光秀について、様々な書籍や歴史モノのテレビ番組などで、信長から酷い仕打ちを受けながらも、誠実かつ真面目に生きる姿が描かれています。

しかし、実際の明智光秀の行動を読み取ると、誠実で真面目な面ではなく、意外な一面が浮かび上がってきます。

  • 比叡山延暦寺焼き討ちに積極的な光秀

1571年9月2日、光秀は、比叡山の北にある雄琴城を拠点とする豪族の和田秀純に、以下の書状を送っています。

「仰木の事は是非ともなてきり(なで斬り)に仕るべく候。やがて本意たるべく候」(仰木は必ず(是が非でも)なで斬りにしなければならない。すぐにそうなるだろう。)

仰木は延暦寺の土地を意味しており、光秀が積極的に延暦寺の地を攻略しようとする姿が見えてきます。この10日後、織田軍は延暦寺の焼き討ちを決行し、多くの人たちを殺害しています。

なお、近年、考古学者が延暦寺を調査したところ、当時の延暦寺の建造物の多くは他に移転しており、焼失したのは延暦寺の中でも2つの建物だけだったと言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その1

延暦寺焼き討ちの後、恩賞として延暦寺の土地をもらった光秀は、その土地の一部を巡り、朝廷との間で揉め事に発展します。

その際、光秀は、信長のところに説明に来ていた天皇の使者に、夜、二貫文(現在の価格で約24万円)を届け、使者を驚かせています。滞在中の旅費や宿泊費という理由で届けていますが、明らかな賄賂と言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その2

1571年12月、光秀は、当時仕えていた足利義昭に暇乞いをして、立ち去ろうとします。その際、光秀は同僚に書状を出し、21貫200文(約250万円余)のお金を2回送り(合計約500万円)、さらに(馬につける)鞍を進呈するので、出家させてほしいと足利義昭に伝えてほしいと書いています。

当時、信長と足利義昭との間に亀裂が生じていて、出家という理由をつけて信長側につこうとする光秀の考えがあっての行動ですが、お金とモノで了解を得ようとしていたようです。

  • 本能寺にほとんど人はいなかった

(これは光秀が優秀な武将である一面を示す話ですが)本能寺の変の当日(1582年6月2日)に、本能寺に押し入った明智光秀の武士が後の時代に残した記録に、広間には一人も人がいなかったと書かれています。実際には、当時は約200人が寺の中にいたと言われますが、ほとんどが女中や側仕えの若い侍で、戦闘に強い武士は少なかったとのことです。

こうした手薄な警備体制で宿泊している信長の状況を十分に把握した上での光秀の行動だったことが分かります。そして、信長の嫡男である信忠も討ち取ったところまでは、光秀の武将としての能力は高く評価されるものと感じます。

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