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【コラム9】柴田勝家 その3:生涯織田家の部将

・羽柴秀吉の野心

 1582年6月、羽柴秀吉と柴田勝家を含めた織田家の重臣たちで清須会議が行われます。この会議で、秀吉の陣営が京を含む旧織田領の大半を獲得します。一方、勝家が得た領地は、近江の長浜城20万石のみです。山崎の戦いに参加しなかった武将で領地を得たのは勝家だけでしたので、強くは言えなかったのでしょう。そして、織田家の家督は、秀吉が主導して織田信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)に決まります。

清須会議後、秀吉はいよいよ野心を見せ始めます。10月、秀吉は京の大徳寺で、勝家や織田一門の織田信雄や織田信孝不在の中、独断で信長の葬儀を挙行します。

さらに、10月28日、秀吉は京で丹羽長秀、池田恒興と談合すると、突然、清須会議で決めた織田家の家督を三法師から織田信雄に変更します。完全な手のひら返しです。

ついに12月15日、秀吉は、勝家が清須会議で唯一得た長浜城を調略で味方に引き込みます。秀吉の人たらしの人心掌握術も然りながら、長浜城の城主の柴田勝豊は、勝家の養子にも関わらず、秀吉へ寝返ってしまっている点に、勝家と柴田勝豊との間に亀裂があったことは否めません。

さらに秀吉の進撃は止まりません。

秀吉は、長浜城入城の翌日、織田信孝の拠点、美濃へ侵攻開始。たった5日で織田信孝を降伏させ、美濃を手に入れます。1583年に入ると、秀吉は伊勢にも侵攻を開始し、滝川一益と激戦を繰り広げます。

・秀吉と仲が良かった勝家

秀吉が活発に自陣営の拡大に勤しんでいた頃、勝家も各地の武将に書状を送っています。その中で、勝家が同僚の堀秀政に送った書状には、興味深いことが書かれています。

「もともと秀吉と勝家は仲が良かったので、心を開いて相談したい。」

映画やドラマにはフィクションの要素があるとは言え、勝家が秀吉を毛嫌いし、見下すような人間関係が描かれることが多いことから、少し意外に感じます。

さらに、同じ書状の中で勝家は、今は内輪揉めはせずに外敵を退治すること、並びに、主君信長の行った仕置き(統治/政策)を静穏に守るべきことを伝えています。これは、他の同僚宛の書状でも、勝家は、織田のために尽くすべきことを説いています。

つまり勝家は、生涯織田家の部将だったのです。

しかし、それでも態度の変わらない秀吉陣営の動きに、勝家もついに戦う決心をします。

・勝家の滅亡は、日本の治まりの始まり

(「賤ケ岳の戦い」(wikimedia))

1583年2月末、雪解けのため、加賀の勝家軍が動き出し、賤ケ岳の戦いが始まります。

当時の領土を比べると、秀吉陣営が合計約150万石なのに対し、勝家陣営が合計約130万石と大差はありませんでした。しかし、秀吉の与党勢力が約270万~300万石と、勝家の与党勢力の約50~60万石とは比べものにならないほど大勢の武将たちを自陣営に引き込んでいました。

賤ケ岳の戦いは、秀吉軍4万に対して、勝家軍は2万ほどでした。兵力で優勢な秀吉は、見事な戦術で勝家軍を撃破します。(合戦の詳細は別の記事で紹介します。)

勝家は、賤ケ岳の戦いの残兵と共に、最後は北庄城に戻ると、一族と共に自刃します。

(「北庄城の柴田勝家」(wikimedia))

毛利家の小早川隆景宛の書状で、この勝利について、秀吉は「日本の治まりは、今この時である」と述べています。

その言葉のとおり、その後、秀吉が間違えれば滅亡するような戦いはありませんでした。その意味で、勝家は秀吉にとって最後の決戦相手だったのでしょう。

【コラム7】柴田勝家 その2:秀吉より速い「北陸大返し」

  • 津田信澄の死に烏帽子親なのに「祝着」と述べる勝家

題目でほぼ全てを書いてしまっていますが、勝家は、最初の主君である織田信勝が信長に殺害されると、信勝の子で、当時まだ赤ん坊だった津田信澄の烏帽子親を務めます。

時は流れ、1582年。27歳となった津田信澄は、織田家重臣たちと四国攻めの準備をしていました。ところが、重臣たちは、本能寺の変の急報を聞くと、謀反を起こした明智光秀の娘婿である津田信澄も謀反へ関与しているのではないかと疑い、すぐさま兵を差し向けて、津田信澄を殺害します。謀反に本当に関与していたかどうかの真相は分かっていません。しかし、勝家は、烏帽子親を務めた津田信澄の死について、書状に「祝着」と書き、祝勝しています。

勝家は、信澄がまだ赤ん坊の頃から烏帽子親を務めてきたにも関わらず、その死に際し、特に感情が入ることもなく、むしろ「祝着」と言えるところに、勝家の冷淡さが伺えます。

  • 秀吉を超える速度の「北陸大返し」

さて、一方、本能寺の変を迎えたときの勝家の動きです。その動きを比較するため、中国大返しで有名な羽柴秀吉の動きも一緒に追います。

6月2日 早朝、本能寺の変が起きる。(明智光秀が織田信長を京の本能寺にて殺害。)

6月3日 深夜又は4日早朝、羽柴秀吉が本能寺の変を知る。

6月6日 柴田勝家が本能寺の変を知り、加賀への帰国を開始する。(越中宮崎城内又は付近:京(山崎)から約330キロ)

  同日 午後2時頃、秀吉が移動を開始する。(備中高松城:京(山崎)から約210キロ)

6月7日 秀吉、姫路城へ到着。(姫路城:京(山崎)から約110キロ(※約100キロ/日を移動))

6月9日 勝家が加賀に到着。(北庄城:京(山崎)から約150キロ(※約180キロ/3日間を移動。つまり60キロ/日で移動))

6月13日 秀吉、山崎に到着。山崎の合戦。(※平均すると30キロ/日で移動)

6月16日 勝家はいまだ加賀に滞在。先陣として、養子の柴田勝豊を出発させようとしたところ、山崎の合戦の急報が届き、出発取り止め。

(山崎の戦い(尼崎大合戰武智主從討死之圖)(wikimedia))

上記の動きについて、秀吉と勝家の動きを比べると、秀吉は「中国大返し」と言われる所以のとおり、たしかに高松城付近から姫路城まで約100キロを1日のうちに移動したため、その点は当時の移動力としては驚異的でした。

ただ、軍勢を集める目的もあったと思われますが、道中、織田信孝・丹羽長秀・池田恒興等の軍勢と合流し、京の山崎の地に着いたとき、出発してから7日ほど経過しています。つまり、秀吉の中国大返しは全体で平均約30キロ/日の移動でした。

一方、勝家は越中の宮崎城付近から加賀の北庄城までの約180キロを3日間で踏破し、約60キロ/日と秀吉の倍の速度です。実際、その速度のまま京に進めば、計算上は3日で到着し、6月13日の山崎の戦いに参加することは可能だったことは、興味深い点です。

いずれにせよ、勝家は越中から加賀までの移動は、秀吉の平均移動実績以上の速さでした。これは勝家の「北陸大返し」とも言うべき移動と言えるでしょう。

勝家の命運を分けた賤ケ岳の戦いは、また分けてお話したいと思います。

【コラム5】織田信忠 ~織田家最強の10年を生きた男~

戦国時代の織田信長の嫡男、織田信忠というと、父織田信長や他の織田家の武将たちに比べ、ややインパクトに欠ける印象が残っています。信忠は、16歳の初陣から26歳で本能寺の変により自刃するまでの10年間、どのように生きたのでしょうか。

今回は、可能な範囲で信長と切り離し、信忠個人の功績と言えるものを挙げてみたいと思います。

  • 静かな初陣

織田信忠(幼名:奇妙丸)は、1557年に生まれます。生母は諸説ありますが、生駒氏出身の吉乃(きつの)が有力と言われています。そして、信忠は、父信長の正室濃姫の養子になったとも言われています。

1572年、信忠は16歳で初陣を迎えます。織田家は、まさに信長包囲網の時期でした。織田軍は、2年前には姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破り、1年前は浅井・朝倉連合軍を支援した比叡山延暦寺の焼き討ちをしており、予断を許さない状況でした。

信忠の初陣の相手は、近江の浅井長政の家臣阿閉貞征(あつじ さだゆき)です。信長から、その居城である山本山城攻略を命じられ、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉など、織田家の有力武将たちを率いて同城を攻めたて、敵兵50名以上を討ち取る成果を上げます。

名だたる織田家の武将たちのも支援もあり、信忠の初陣は大過なく終わります。

  • 合戦の日々(長島一向一揆、長篠の合戦、岩村城攻め、そして雑賀攻め)

初陣後、信忠は織田家の合戦に次々に駆り出されます。

1574年の長島一向一揆では、織田軍が東方面・西方面・中央の三手に分かれて出陣した際、信忠は東方面の大将を務めており、1575年の長篠の合戦では、信長と一緒に出陣し、その歴史的合戦を目の当たりにしています。そして、長篠の合戦の直後、信忠は、単独で美濃は岩村城の秋山虎繁を攻め、この歴戦の武将をおよそ4か月の籠城戦の末、ようやく捕縛の上、磔にしています。この功をもって、19歳になった信忠は、朝廷から秋田城介(あいたじょうのすけ)の官位を贈られ、また父信長からは、早くも家督を譲られます。

織田信長は、1577年2月、雑賀攻めを行います。このとき、織田軍の先陣だった明智光秀や細川藤孝が、敵の雑賀衆(鈴木孫一など)の攻勢にあって苦戦を強いられていたとき、信忠は一門衆の手勢を率いて先陣を救援し、活躍します。その後、信忠が雑賀衆の降伏した城を受け取り、成果をあげています。

  • 信忠を信頼する信長

そして、転機となったのは1577年の松永久秀の謀反の鎮圧でした。

同年9月、謀反を起こした松永久秀の立てこもる信貴山城攻めでは、信忠が総大将となります。当初は、信長は松永久秀という人材を惜しみ、1か月ほどは交渉しての説得を試みますが、効果がないため、諦めて城攻めを決意したと言われています。9月28日、信忠は、信長の命を受けて、織田軍を率い、松永久秀側の片岡城の攻撃開始します。その後、信忠は、わずか2週間ほどたった10月10日、松永久秀居城の信貴山の落城まで成し遂げています。(これは激戦となった片岡城攻めで、明智光秀と細川忠興・興元兄弟の奮迅の働きにより、一気に織田軍の攻略が進んだとも言われています。)

いずれにしても、信長は、信忠が総大将として松永久秀の謀反をわずか2週間という短期間で鎮圧した功績を高く評価し、以後、信長は大軍を指揮する機会は大きく減り、それに代わり、信忠の活躍が飛躍的に多くなっていきます。これは、事実上の家督相続がようやく始まったと言えるでしょう。

  • 武田家をわずか1か月で滅ぼした信忠

信忠は、その後も本願寺攻めや播磨遠征などで功績を残し、1582年2月、次は甲斐の武田攻めの総大将となります。相手は、長篠の合戦や高天神城落城で勢力を落としたとは言え、戦国時代を代表する甲斐の武田氏の存在感は非常に大きいものでした。

2月1日、武田家の当主、武田勝頼の妹婿木曽義昌が内通してきたとの一報が信忠の下に入ります。すぐに安土城の信長に知らせると、信長の対応は早く、各地域から甲斐への侵攻が開始されます。

駿河から徳川家康が、関東から北条氏政が、飛騨から金森長近が、そして、伊那から織田信長と信忠親子が、それぞれ侵攻の手はずを進めます。

2月12日、信忠は、有力家臣の川尻秀隆や滝川一益などを率いて、岐阜城から出陣します。

ところが、木曽義昌だけでなく、穴山梅雪や武田信兼などの武田家重鎮と言われた親族まで次々に武田勝頼から離反してしまいます。そして雪崩を打って武田家臣が離反していく中、唯一織田軍に立ちはだかった武将が、高遠城の仁科盛信でした。

信忠が、高遠城の仁科盛信に降伏勧告を行ったところ、「早々に攻城されよ。」と返答があります。そして、3月2日、信忠は高遠城の総攻めを開始します。信忠は、高遠城の堀際まで進み、自ら武器を取って前線に立って指揮したことから、織田家の将兵は奮起して、一気に織田軍は城内に侵入し、高遠城は落城します。

そして、ついに3月11日、追い詰められた武田勝頼・信勝親子は天目山で自害し、武田家は滅びます。そのとき、信長は、まだ美濃の岩村城に到着したところでした。

信忠が出陣からわずか1か月ほどで武田家を滅ぼしたという事実に、信長も衝撃を受けます。当初信長は、あまりの進撃の速さに、信忠や信忠の家臣たちに深入りしないように連絡をしますが、信忠には聞き入れられませんでした。むしろ、信忠率いる織田軍は、間髪入れずに一気に攻め込んだことで、武田軍に立て直す余裕を与えず、わずか1か月でほどで武田家を滅亡まで追い込みました。

父信長は、当初その行動に否定的でしたが、続報が届くにつれて状況が分かると、信忠を激賞し、信忠と共に攻め込んだ家臣たちの功も労います。

  • 二条新御所(旧二条城)での自刃

武田家を滅ぼした約3か月後、信忠は、今度は自分が攻め滅ぼされる側になります。

同年(1582年)6月2日、家臣の明智光秀が、1万数千の軍勢をもって京の本能寺に宿泊中の信長を襲撃し、殺害します。その報を聞いたとき、信忠は本能寺の北東約1kmにある妙覚寺という寺に宿泊中でした。

信忠はすぐに手勢5百程を率いて、本能寺に駆け付けようとしますが、道中で家臣の村井貞勝に会い、すでに本能寺は焼け落ち、信長の運命が絶望的な状況であることを知ります。

このときの状況について、多くの歴史家は、信忠が信長の死を確認した時点で、必死に逃げ延び、本拠地とする美濃や尾張に戻って体制を整えれば、反撃の機会があったという指摘をしています。たしかに明智軍は本能寺にいる信長を確実に殺害するのに専念しており、他の京の地を掌握していなかったと言われています。実際に信忠と一緒にいた前田玄以は嫡男三法師(後の織田秀信)を連れて脱出に成功しており、他にも叔父の織田有楽斎も京からの逃亡に成功しています。

しかし、信忠はすでに京の四方を明智勢に囲まれているものと考え、雑兵に討ち取られるなら、と宿泊していた妙覚寺の東隣の二条新御所(旧二条城)での籠城を決意します。二条新御所は、以前に織田家から誠仁親王一家に譲ったものでしたが、誠仁親王一家には別邸に移ってもらい、信忠はそこに籠城します。

二条新御所には、信長の馬廻衆1千ほどの軍勢も駆け付け、明智勢との戦端が開かれます。1千5百ほどの信忠軍は非常に戦意が高く、1万数千の明智軍との間で一進一退の攻防を繰り広げます。

しかし、明智軍が二条新御所に隣接する近衛前久の屋敷から矢や鉄砲で攻撃を始めると徐々に信忠軍は劣勢に転じます。そして、二条新御所の敷地内に明智軍が侵入すると、信忠の軍勢もついに敗れ去ります。

ただ、父信長と同じく、その遺骸は発見されず、今日に至るまで不明のままです。

1572年に初陣を果たした信忠は、信長包囲網の時期から織田家の覇権が確立されていくまでを経験し、武田氏滅亡の1582年まで、いわゆる「織田家最強の10年間」を生きた男と言えるでしょう。

信忠は、父信長の名声により、なかなか脚光を浴びないことが多いですが、多くの難関を乗り越えた戦国武将の一人として、今回、光を当ててみました。

【コラム4】松永久秀は悪人か?

ネットや書籍で戦国時代の三好家に仕えた武将、松永久秀を紹介するとき、「梟雄」(荒々しく狡猾な人)や「三大悪人の一人」などの言葉で説明されることがあります。

その理由については、主に将軍殺し、東大寺(大仏殿)焼き討ち、主家三好家の乗っ取り、という3つの点に言及されることが多くあります。今回は、それらの点についてお話します。

  • 久秀は将軍足利義輝を殺したのか。

まず、久秀は、永禄の変(1565年5月19日)(※1)が起きた際、京にはいませんでした。よって、久秀の悪行とされる理由は、嫡男松永久通に将軍殺害を指示したから、という言われ方をしていますが、その証拠はありません。親が子に指示した証拠となると、対面での指示の可能性もあるため、証拠を見つけられない可能性が高いと言われてしまうかもしれませんが、証拠がないのに松永久秀の指示と言いきることもできないと感じます。

また、永禄の変の2年前の1563年、久秀は既に家督を久通に譲っています。(久秀が家督を譲った後も松永家中の事実上の首長的地位にあるとは言え)久通自身の判断の可能性も十分にあり、実際に久通は実行者であるため、久秀に罪をかぶせるべきか、疑問が残ります。

さらに、永禄の変の直後、久秀は興福寺一乗院の覚慶(後の足利義昭)を助命しています。(久秀が覚慶を害さないとの誓紙を提出し、覚慶から久秀へ頼みとしているとする旨の書状が出ています。)これは、兄の将軍足利義輝や弟の鹿苑寺周暠が殺害された流れに反する行動であり、久秀は、主家の三好義継や子の松永久通とは異なる行動を取っている点から、将軍殺害に賛成していなかったのではないか、とさえ感じてきます。

  • 久秀は東大寺を焼き討ちにしたのか。

東大寺(大仏殿)の焼失は、1567年10月10日、当時三好家は内部分裂により、三好三人衆が松永久秀の居城の多聞山城に押し寄せ、包囲していたときに起きました。夜、久秀が三人衆が本陣を置いていた東大寺に夜襲をかけた際、東大寺の幾つかの建物で火が上がり、大仏殿の回廊に火が回り、午前2時頃に大仏が焼失しました。そして、三人衆はその夜襲により、東大寺から離れた場所に撤退します。

この焼失の詳細な経緯は諸説あり、三好三人衆の兵が撤退するときに火を放ったとするものや三人衆の中にいたキリスト教徒が信仰上の理由から放火したものなども伝えられていますが、どれが真相かは分かっていません。

いずれにしても、久秀は、1559年の大和入り以来、8年間、東大寺を含む奈良を支配・保護してきており、それが三好三人衆の侵入に対して反撃する際に、敵の本陣だった東大寺の大仏殿が何かしらの事情で焼失してしまったものであることが分かります。元々大仏殿を焼く予定であれば、自領内かつ居城にも近いため、もっと早い時期にいくらでも焼き討ちなどできたものですので、悪人の根拠とされるような、悪意をもって東大寺を焼き討ちしたものではないことが分かります。

  • 久秀は主家を乗っ取ったのか。

まず、三好家を「乗っ取った」という定義にもよりますが、三好長慶から信頼され、三好家中で強い影響力を持ったという点は様々な資料から確認できます。しかし、それは同じく三好家臣の篠原長房も三好家中で大きな影響力を持ったことは確認できており、実際に篠原長房は、三好家の家督を継いだ主君三好義継と対立し、三好三人衆まで篠原長房に味方したため、義継は当主であるにも関わらず出奔し、久秀と共に織田の軍門に下っています。その際、義継は久秀に同心し、久秀が三好家にとって「大忠」であるとまで言っています。

また、時代は遡りますが、他にも久秀が三好義興(主君三好長慶の嫡男)を毒殺したとする説など、三好一族の不幸を久秀によるものとする話がありますが、どれも当時の資料からは確認できず、後世になって作成された物語でしか確認できないため、創作されたものと考えられます。ちなみに、義興は病気になってからの過程が記録に残されており、病死と考える方が自然と思われます。

  • 逆に久秀は悪人ではないと言えるのか。

戦国武将として、何を基準にして「悪人」とするのかにもよりますが、久秀が、1577年8月、当時仕えていた織田信長を「裏切り」、同10月に、織田軍に包囲されて滅亡したという点では、戦国時代の多くの「悪人」の一人かもしれません。

ただ、最後の裏切り以外に、久秀の「悪人」行為はなく(※2)、「梟雄」や「三大悪人の一人」と呼ばれるほどなのか、という点で疑問は残ります。

(※1)永禄の変:1565年5月19日、第13代将軍足利義輝が三好義継が松永久通や三好長逸などと共に1万の兵力を従え、京の将軍御所を襲撃し、足利義輝、その弟の鹿苑寺周暠などが殺害された事件。言い伝えでは、兵法家の塚原卜伝から免許皆伝を受けていた足利義輝は、襲撃当日、御所にあった足利家の名刀を多数畳に刺し、多数の敵兵を斬り倒し、刃こぼれするたびに、名刀を1本ずつ抜いては戦い、最後は力尽きて三好兵に殺害されたと言う話が残っています。(個人的には後世の創作のように感じますが、それだけ剣術の達人であったことを伺わせる話かと思っています。)

(※2)1565年に久秀が義継と対立したとする話がありますが、これは覚慶を助けた久秀をよく思わない三好三人衆のクーデターにより、久秀が追放されたものであり、特に久秀が主家に対して挙兵したものではありません(実際に2年後に主君三好義継は久秀側につき、信長に与したことは上述のとおり。)。また、1568年の信長包囲網の際、信長を裏切ったという話は事実ではなく(よって裏切った後に降伏して茶器を献上した話も事実ではありません。)、その時期を通じ、久秀は継続して信長の指示の下で家臣として、行動しています。

【コラム3】明智光秀の意外な一面

  • 誠実に描かれる明智光秀

1582年6月2日に京の本能寺で織田信長を討った明智光秀について、様々な書籍や歴史モノのテレビ番組などで、信長から酷い仕打ちを受けながらも、誠実かつ真面目に生きる姿が描かれています。

しかし、実際の明智光秀の行動を読み取ると、誠実で真面目な面ではなく、意外な一面が浮かび上がってきます。

  • 比叡山延暦寺焼き討ちに積極的な光秀

1571年9月2日、光秀は、比叡山の北にある雄琴城を拠点とする豪族の和田秀純に、以下の書状を送っています。

「仰木の事は是非ともなてきり(なで斬り)に仕るべく候。やがて本意たるべく候」(仰木は必ず(是が非でも)なで斬りにしなければならない。すぐにそうなるだろう。)

仰木は延暦寺の土地を意味しており、光秀が積極的に延暦寺の地を攻略しようとする姿が見えてきます。この10日後、織田軍は延暦寺の焼き討ちを決行し、多くの人たちを殺害しています。

なお、近年、考古学者が延暦寺を調査したところ、当時の延暦寺の建造物の多くは他に移転しており、焼失したのは延暦寺の中でも2つの建物だけだったと言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その1

延暦寺焼き討ちの後、恩賞として延暦寺の土地をもらった光秀は、その土地の一部を巡り、朝廷との間で揉め事に発展します。

その際、光秀は、信長のところに説明に来ていた天皇の使者に、夜、二貫文(現在の価格で約24万円)を届け、使者を驚かせています。滞在中の旅費や宿泊費という理由で届けていますが、明らかな賄賂と言われています。

  • 賄賂を贈る光秀 その2

1571年12月、光秀は、当時仕えていた足利義昭に暇乞いをして、立ち去ろうとします。その際、光秀は同僚に書状を出し、21貫200文(約250万円余)のお金を2回送り(合計約500万円)、さらに(馬につける)鞍を進呈するので、出家させてほしいと足利義昭に伝えてほしいと書いています。

当時、信長と足利義昭との間に亀裂が生じていて、出家という理由をつけて信長側につこうとする光秀の考えがあっての行動ですが、お金とモノで了解を得ようとしていたようです。

  • 本能寺にほとんど人はいなかった

(これは光秀が優秀な武将である一面を示す話ですが)本能寺の変の当日(1582年6月2日)に、本能寺に押し入った明智光秀の武士が後の時代に残した記録に、広間には一人も人がいなかったと書かれています。実際には、当時は約200人が寺の中にいたと言われますが、ほとんどが女中や側仕えの若い侍で、戦闘に強い武士は少なかったとのことです。

こうした手薄な警備体制で宿泊している信長の状況を十分に把握した上での光秀の行動だったことが分かります。そして、信長の嫡男である信忠も討ち取ったところまでは、光秀の武将としての能力は高く評価されるものと感じます。

【コラム2】源平合戦の兵力

  • 歴史家たちの懸念

歴史研究者の本を読むと、よく源平合戦や鎌倉時代などの兵力が異常に誇張されているという記事をよく読みます。鎌倉時代の公式の歴史書とも言われる『吾妻鏡』ですら、頼朝が挙兵後に数百人を率いていたのに、突然数万人に膨れあがり、さらに一時的に20万人と言った兵力になったという記載が出てきます。

数日から数週間でそんな人間が増えることも現実的ではないので、考古学調査結果や当時の風潮、当時の貴族の日記などから兵力の規模を調べてみました。

  • 鎌倉時代(最盛期)の御家人は約2900人

まず、最盛期(14世紀初頭)の鎌倉の全体人口及び武家人口について、考古学者による鎌倉の史跡発掘調査の調査結果を見てみました。やはり800年程前のことなので精度に限界があり、範囲での結果であることから、最大値を見てみます。すると、

鎌倉全体の人口:約10万

うち武家(家族・郎党を含む):約2万9千人

うち戦闘員:約1万7500人(武家から家族約1万1500人を除いた数字)

うち御家人(武家屋敷主人):約2900人(戦闘員から御家人1人に対する従者平均5人の比率を出し、それを基に従卒者を除いた数字)

鎌倉時代の最盛期の御家人は約2900人という数は、鎌倉時代初期に、頼朝が上洛にあたって調べさせた御家人2096人という数字に近いことが分かります。鎌倉政権の初期がおよそ2000人、その後、最盛期に約2900人くらいになっていったと理解することができます。

  • 頼朝の挙兵時の兵力は約90人、鎌倉入りは約2000人前後、政権確立時は約1万人+α程度

頼朝が挙兵したとき、その兵力は約90人と言われています。その後、頼朝が鎌倉入りしたとき、御家人は311人でした。歴史家によると、当時の合戦の実態として、兜持ち、旗指や馬子などの役目をする従者が御家人を常に支えていました。それらの従者の人数は、御家人によって1人もしくは10人など、経済力によって異なりますが、中央値である5~6人で計算すると、御家人本人と併せ、頼朝の鎌倉入りの兵力はおよそ2000人前後という規模だったことが分かります。

さらに、先述のとおり、平氏滅亡後に政権を確立させ、上洛のために調べた御家人の数が約2000人ですので、全兵力は、およそ1万前後か1万数千人といった規模であることが分かります。鎌倉時代は、農業の生産性も低く、貧しい御家人も多くいたことを考えると、これよりも少ない可能性もあります。

  • 一ノ谷の合戦の源氏軍はせいぜい3千人

源平合戦を知る文献には、『吾妻鏡』以外に、貴族の日記があります。一ノ谷の合戦当時、関白だった九条兼実は、その日記の中で、京にて、一ノ谷の合戦に向かう源氏の軍勢が2手あり、視覚的に片方が1千、もう片方が2千といった程度しかいない、と現地の軍勢の状況を残しています。

九条兼実は、源氏の軍勢の少なさをとても気にしていました。しかし、結果的に合計3千人程度の源氏軍が平氏軍を打ち破っています。ここで詳細は書きませんが、結局、平氏軍側も3千人と同格の兵力に過ぎなかったのではないか、と考えています。

  • 一所懸命の世界

「一生懸命」の語源となった1つの土地を命がけで守る「一所懸命」という言葉にあるとおり、源平合戦のあった時代では、土地は経済の中心であり、各地の武士団は自分たちの資産である土地を守ることを最優先にしていました。

つまり、頼朝の下の御家人と言えど、平氏打倒のためとは言え、あまり多くの兵力を派遣することはできず、自分たちの土地を奪い取られないためにも、それなりの守備兵を残していたものと考えられます。

  • 歴史のリアルさ

今回、歴史書『吾妻鏡』の情報ではなく、考古学の調査結果や当時の風潮、現地を知る貴族の日記などからの情報を書いてみました。個人的には、後者の情報が、より歴史のリアルさを伝えてくれるように感じています。もちろん、歴史書『吾妻鏡』なくしては、分からない当時の事実も多いため、結局は一つ一つの事実を様々な角度から見る必要がありますが、歴史の生々しさにどれだけ近づけるかが歴史学の魅力と思いました。

【コラム1】「鎌倉幕府」は存在したのか。

  • 「幕府」という言葉

日本には、歴史上、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と3つの幕府が登場します。しかし、3つの幕府がそれぞれ政治を行っていた時代に、「幕府」という言葉はあまり普及していませんでした。

厳密に武家政権の政庁や体制を表す「幕府」という意味で使用されるのは、室町時代になってからであり、それが普及するのは江戸時代後期(幕末又は明治時代とも言われる。)でした。「幕府」という言葉は、実際に該当する時代にその言葉が使われたことはほとんどありませんでした。つまり、現在使われている3つの幕府は、後世になってから、それぞれ権力を持った一族の拠点の土地を幕府という名前で表したものになります。

また、江戸時代に入って将軍の居館を「柳営」とも言っていましたが、それも、今の「幕府」という意味とも少し違っていました。また幕府は、物理的な将軍の宿館という意味に由来します。

  • 「幕府」は中国が由来

そもそも幕府は、中国から輸入された言葉で、古代中国において、王から命じられて遠征中だった将軍が陣営として幕を張り巡らせて設置した幕舎のことを、幕府と呼んでいました。その際、遠征中の将軍が、本城にいる王に対して、細々とした判断を仰ぐと、機敏な判断ができなくなるため、そのような将軍には、軍の指揮権を含めた様々な権限を与えられていたことから、遠征先での統治や軍団の運営を円滑に行うための体制を意味して「幕府」と呼んだことが由来です。

  • 頼朝が作った大倉御所は他の家を壊して作ったもの

1180年10月15日、源頼朝が鎌倉の居館である大蔵御所に入ってから、頼朝の鎌倉を中心にした政権が始まったと言われています。

なお、頼朝の相模国入りは、同年10月6日で、しばらくは民家を宿館として邸宅を建てる土地を探し、一度は父である源義朝の旧跡のある亀ヶ谷(かめがやつ)という地に邸宅を建てようかと検討したものの、同地は土地が広くなく、既に家臣の三浦義実が寺を建立していたことから諦め、大倉御所の地になったとのことです。ちなみに、大倉御所は、約200年も使用した、ある御家人の家が、安倍晴明(あべのせいめい)の府を押してあるため一度も火災にあったことがないという話から、その御家人の家を取り壊し、大倉御所の建設に使われたと言われています。

  • たまたま選ばれた征夷大将軍

さて、幕府というと必ず言及されるのが征夷大将軍です。多くの人が、征夷大将軍になると、幕府という体制を築いて、政権を持つというイメージを持っているかと思います。

しかし、実際には、頼朝が1192年に上洛した際、特に征夷大将軍を指定して朝廷に要求したわけではなく、大将軍という地位クラスを朝廷に要求したと言われています。

朝廷内では大将軍のポストとして、惣官、征東大将軍、上将軍、征夷大将軍の4つを検討します。その際、朝廷の高官たちは、惣官は平宗盛(平清盛の三男・後継者)が任命されて滅ぼされ、征東大将軍は源義仲(源頼朝の従兄弟にして頼朝と対立)が任命されてこれも滅ぼされ、いずれも縁起が悪く対象から外します。また、上将軍は日本史上で先例がないため、先例主義である朝廷の高官たちは、これも対象から外します。最終的に坂上田村麻呂などの活躍もあり縁起の良かった征夷大将軍が選ばれたと言われています。

このように、征夷大将軍というポストは、偶然選ばれたものであることが分かります。

  • 頼朝の征夷大将軍は、たったの2年

頼朝は、1192年に任命された征夷大将軍を、そのたった2年後の1194年に辞任します。その理由は分かっていません。

そもそも頼朝が大将軍の地位を要求した理由として、大臣になると京への上洛を求められる可能性があるため、大臣などを除き、権威ある高い官職を求めて大将軍を要求したと言われています。そのため、征夷大将軍はもちろん、大将軍のいずれの地位にも固執していたわけではなく、権威付けのための任官だったと考えられます。

  • 征夷大将軍になると政権の首長になれるという構図は後世の風習

そして、1199年に頼朝死去を受けて、2代目の源頼家が政権を継承するも、征夷大将軍への任官は1202年と継承から3年後のことでした。

このことから、2年間で辞任した頼朝と頼家は、2人とも特に征夷大将軍を政権首長者の根拠としていたわけではないことが分かります。

こうした点を踏まえると、征夷大将軍に任命されることにより、政権首長者の座を得るという構図は、その後の実績の積み上げにより、結果的に作られていったものということが分かります。

  • 「鎌倉幕府」とは便宜上の言葉

結論として、「鎌倉幕府」という言葉は、便宜上使われてきたものということが分かります。頼朝が鎌倉で政治を行った時代には、後の時代の幕府で想像される政庁や体制、法などもあまり整備されておらず、むしろ武士で初めて京から大江広元などの文官を招き、少しずつ政権の基盤を作り始めた武士の集合体という姿が見えてきます。

当時の関東武士団には文字が読めなかったり、書けなかったりする人たちが多く存在していました。むしろ、頼朝が設置した公文所のメンバーには、京下りの文官以外で関東武士は足立遠元ただ一人しかいませんでした。

一方で、当時の京の貴族の日記には、関東武士の荒々しさや高い武術を恐れていることが書かれており、どちらかというと関東武士は武辺者という印象がありました。

  • 頼朝の残した歴史

頼朝がそのような武士たちを集めて戦闘に勝ち、鎌倉に居を構えて、命令に従わせることができたのは、源氏という貴種を重んじる当時の風潮に加えて、人間的な魅力が頼朝にあったものと想像されます。しかし、それも頼朝の死後に何度も起きた鎌倉の内紛(比企氏の乱、畠山重忠の乱、和田合戦など)が、当時の政権の不安定さを証明しているとも言えます。

ただ、頼朝がそうした武士たちを率いて初めて手にした権力は、それから700年近く武士の手元にありました。征夷大将軍への任命とは関係なく、この画期的な変化こそ頼朝の残した歴史だと感じます。