【コラム4】松永久秀は悪人か?

ネットや書籍で戦国時代の三好家に仕えた武将、松永久秀を紹介するとき、「梟雄」(荒々しく狡猾な人)や「三大悪人の一人」などの言葉で説明されることがあります。

その理由については、主に将軍殺し、東大寺(大仏殿)焼き討ち、主家三好家の乗っ取り、という3つの点に言及されることが多くあります。今回は、それらの点についてお話します。

  • 久秀は将軍足利義輝を殺したのか。

まず、久秀は、永禄の変(1565年5月19日)(※1)が起きた際、京にはいませんでした。よって、久秀の悪行とされる理由は、嫡男松永久通に将軍殺害を指示したから、という言われ方をしていますが、その証拠はありません。親が子に指示した証拠となると、対面での指示の可能性もあるため、証拠を見つけられない可能性が高いと言われてしまうかもしれませんが、証拠がないのに松永久秀の指示と言いきることもできないと感じます。

また、永禄の変の2年前の1563年、久秀は既に家督を久通に譲っています。(久秀が家督を譲った後も松永家中の事実上の首長的地位にあるとは言え)久通自身の判断の可能性も十分にあり、実際に久通は実行者であるため、久秀に罪をかぶせるべきか、疑問が残ります。

さらに、永禄の変の直後、久秀は興福寺一乗院の覚慶(後の足利義昭)を助命しています。(久秀が覚慶を害さないとの誓紙を提出し、覚慶から久秀へ頼みとしているとする旨の書状が出ています。)これは、兄の将軍足利義輝や弟の鹿苑寺周暠が殺害された流れに反する行動であり、久秀は、主家の三好義継や子の松永久通とは異なる行動を取っている点から、将軍殺害に賛成していなかったのではないか、とさえ感じてきます。

  • 久秀は東大寺を焼き討ちにしたのか。

東大寺(大仏殿)の焼失は、1567年10月10日、当時三好家は内部分裂により、三好三人衆が松永久秀の居城の多聞山城に押し寄せ、包囲していたときに起きました。夜、久秀が三人衆が本陣を置いていた東大寺に夜襲をかけた際、東大寺の幾つかの建物で火が上がり、大仏殿の回廊に火が回り、午前2時頃に大仏が焼失しました。そして、三人衆はその夜襲により、東大寺から離れた場所に撤退します。

この焼失の詳細な経緯は諸説あり、三好三人衆の兵が撤退するときに火を放ったとするものや三人衆の中にいたキリスト教徒が信仰上の理由から放火したものなども伝えられていますが、どれが真相かは分かっていません。

いずれにしても、久秀は、1559年の大和入り以来、8年間、東大寺を含む奈良を支配・保護してきており、それが三好三人衆の侵入に対して反撃する際に、敵の本陣だった東大寺の大仏殿が何かしらの事情で焼失してしまったものであることが分かります。元々大仏殿を焼く予定であれば、自領内かつ居城にも近いため、もっと早い時期にいくらでも焼き討ちなどできたものですので、悪人の根拠とされるような、悪意をもって東大寺を焼き討ちしたものではないことが分かります。

  • 久秀は主家を乗っ取ったのか。

まず、三好家を「乗っ取った」という定義にもよりますが、三好長慶から信頼され、三好家中で強い影響力を持ったという点は様々な資料から確認できます。しかし、それは同じく三好家臣の篠原長房も三好家中で大きな影響力を持ったことは確認できており、実際に篠原長房は、三好家の家督を継いだ主君三好義継と対立し、三好三人衆まで篠原長房に味方したため、義継は当主であるにも関わらず出奔し、久秀と共に織田の軍門に下っています。その際、義継は久秀に同心し、久秀が三好家にとって「大忠」であるとまで言っています。

また、時代は遡りますが、他にも久秀が三好義興(主君三好長慶の嫡男)を毒殺したとする説など、三好一族の不幸を久秀によるものとする話がありますが、どれも当時の資料からは確認できず、後世になって作成された物語でしか確認できないため、創作されたものと考えられます。ちなみに、義興は病気になってからの過程が記録に残されており、病死と考える方が自然と思われます。

  • 逆に久秀は悪人ではないと言えるのか。

戦国武将として、何を基準にして「悪人」とするのかにもよりますが、久秀が、1577年8月、当時仕えていた織田信長を「裏切り」、同10月に、織田軍に包囲されて滅亡したという点では、戦国時代の多くの「悪人」の一人かもしれません。

ただ、最後の裏切り以外に、久秀の「悪人」行為はなく(※2)、「梟雄」や「三大悪人の一人」と呼ばれるほどなのか、という点で疑問は残ります。

(※1)永禄の変:1565年5月19日、第13代将軍足利義輝が三好義継が松永久通や三好長逸などと共に1万の兵力を従え、京の将軍御所を襲撃し、足利義輝、その弟の鹿苑寺周暠などが殺害された事件。言い伝えでは、兵法家の塚原卜伝から免許皆伝を受けていた足利義輝は、襲撃当日、御所にあった足利家の名刀を多数畳に刺し、多数の敵兵を斬り倒し、刃こぼれするたびに、名刀を1本ずつ抜いては戦い、最後は力尽きて三好兵に殺害されたと言う話が残っています。(個人的には後世の創作のように感じますが、それだけ剣術の達人であったことを伺わせる話かと思っています。)

(※2)1565年に久秀が義継と対立したとする話がありますが、これは覚慶を助けた久秀をよく思わない三好三人衆のクーデターにより、久秀が追放されたものであり、特に久秀が主家に対して挙兵したものではありません(実際に2年後に主君三好義継は久秀側につき、信長に与したことは上述のとおり。)。また、1568年の信長包囲網の際、信長を裏切ったという話は事実ではなく(よって裏切った後に降伏して茶器を献上した話も事実ではありません。)、その時期を通じ、久秀は継続して信長の指示の下で家臣として、行動しています。

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