【コラム2】源平合戦の兵力

  • 歴史家たちの懸念

歴史研究者の本を読むと、よく源平合戦や鎌倉時代などの兵力が異常に誇張されているという記事をよく読みます。鎌倉時代の公式の歴史書とも言われる『吾妻鏡』ですら、頼朝が挙兵後に数百人を率いていたのに、突然数万人に膨れあがり、さらに一時的に20万人と言った兵力になったという記載が出てきます。

数日から数週間でそんな人間が増えることも現実的ではないので、考古学調査結果や当時の風潮、当時の貴族の日記などから兵力の規模を調べてみました。

  • 鎌倉時代(最盛期)の御家人は約2900人

まず、最盛期(14世紀初頭)の鎌倉の全体人口及び武家人口について、考古学者による鎌倉の史跡発掘調査の調査結果を見てみました。やはり800年程前のことなので精度に限界があり、範囲での結果であることから、最大値を見てみます。すると、

鎌倉全体の人口:約10万

うち武家(家族・郎党を含む):約2万9千人

うち戦闘員:約1万7500人(武家から家族約1万1500人を除いた数字)

うち御家人(武家屋敷主人):約2900人(戦闘員から御家人1人に対する従者平均5人の比率を出し、それを基に従卒者を除いた数字)

鎌倉時代の最盛期の御家人は約2900人という数は、鎌倉時代初期に、頼朝が上洛にあたって調べさせた御家人2096人という数字に近いことが分かります。鎌倉政権の初期がおよそ2000人、その後、最盛期に約2900人くらいになっていったと理解することができます。

  • 頼朝の挙兵時の兵力は約90人、鎌倉入りは約2000人前後、政権確立時は約1万人+α程度

頼朝が挙兵したとき、その兵力は約90人と言われています。その後、頼朝が鎌倉入りしたとき、御家人は311人でした。歴史家によると、当時の合戦の実態として、兜持ち、旗指や馬子などの役目をする従者が御家人を常に支えていました。それらの従者の人数は、御家人によって1人もしくは10人など、経済力によって異なりますが、中央値である5~6人で計算すると、御家人本人と併せ、頼朝の鎌倉入りの兵力はおよそ2000人前後という規模だったことが分かります。

さらに、先述のとおり、平氏滅亡後に政権を確立させ、上洛のために調べた御家人の数が約2000人ですので、全兵力は、およそ1万前後か1万数千人といった規模であることが分かります。鎌倉時代は、農業の生産性も低く、貧しい御家人も多くいたことを考えると、これよりも少ない可能性もあります。

  • 一ノ谷の合戦の源氏軍はせいぜい3千人

源平合戦を知る文献には、『吾妻鏡』以外に、貴族の日記があります。一ノ谷の合戦当時、関白だった九条兼実は、その日記の中で、京にて、一ノ谷の合戦に向かう源氏の軍勢が2手あり、視覚的に片方が1千、もう片方が2千といった程度しかいない、と現地の軍勢の状況を残しています。

九条兼実は、源氏の軍勢の少なさをとても気にしていました。しかし、結果的に合計3千人程度の源氏軍が平氏軍を打ち破っています。ここで詳細は書きませんが、結局、平氏軍側も3千人と同格の兵力に過ぎなかったのではないか、と考えています。

  • 一所懸命の世界

「一生懸命」の語源となった1つの土地を命がけで守る「一所懸命」という言葉にあるとおり、源平合戦のあった時代では、土地は経済の中心であり、各地の武士団は自分たちの資産である土地を守ることを最優先にしていました。

つまり、頼朝の下の御家人と言えど、平氏打倒のためとは言え、あまり多くの兵力を派遣することはできず、自分たちの土地を奪い取られないためにも、それなりの守備兵を残していたものと考えられます。

  • 歴史のリアルさ

今回、歴史書『吾妻鏡』の情報ではなく、考古学の調査結果や当時の風潮、現地を知る貴族の日記などからの情報を書いてみました。個人的には、後者の情報が、より歴史のリアルさを伝えてくれるように感じています。もちろん、歴史書『吾妻鏡』なくしては、分からない当時の事実も多いため、結局は一つ一つの事実を様々な角度から見る必要がありますが、歴史の生々しさにどれだけ近づけるかが歴史学の魅力と思いました。

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