・羽柴秀吉の野心
1582年6月、羽柴秀吉と柴田勝家を含めた織田家の重臣たちで清須会議が行われます。この会議で、秀吉の陣営が京を含む旧織田領の大半を獲得します。一方、勝家が得た領地は、近江の長浜城20万石のみです。山崎の戦いに参加しなかった武将で領地を得たのは勝家だけでしたので、強くは言えなかったのでしょう。そして、織田家の家督は、秀吉が主導して織田信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)に決まります。
清須会議後、秀吉はいよいよ野心を見せ始めます。10月、秀吉は京の大徳寺で、勝家や織田一門の織田信雄や織田信孝不在の中、独断で信長の葬儀を挙行します。
さらに、10月28日、秀吉は京で丹羽長秀、池田恒興と談合すると、突然、清須会議で決めた織田家の家督を三法師から織田信雄に変更します。完全な手のひら返しです。
ついに12月15日、秀吉は、勝家が清須会議で唯一得た長浜城を調略で味方に引き込みます。秀吉の人たらしの人心掌握術も然りながら、長浜城の城主の柴田勝豊は、勝家の養子にも関わらず、秀吉へ寝返ってしまっている点に、勝家と柴田勝豊との間に亀裂があったことは否めません。
さらに秀吉の進撃は止まりません。
秀吉は、長浜城入城の翌日、織田信孝の拠点、美濃へ侵攻開始。たった5日で織田信孝を降伏させ、美濃を手に入れます。1583年に入ると、秀吉は伊勢にも侵攻を開始し、滝川一益と激戦を繰り広げます。
・秀吉と仲が良かった勝家
秀吉が活発に自陣営の拡大に勤しんでいた頃、勝家も各地の武将に書状を送っています。その中で、勝家が同僚の堀秀政に送った書状には、興味深いことが書かれています。
「もともと秀吉と勝家は仲が良かったので、心を開いて相談したい。」
映画やドラマにはフィクションの要素があるとは言え、勝家が秀吉を毛嫌いし、見下すような人間関係が描かれることが多いことから、少し意外に感じます。
さらに、同じ書状の中で勝家は、今は内輪揉めはせずに外敵を退治すること、並びに、主君信長の行った仕置き(統治/政策)を静穏に守るべきことを伝えています。これは、他の同僚宛の書状でも、勝家は、織田のために尽くすべきことを説いています。
つまり勝家は、生涯織田家の部将だったのです。
しかし、それでも態度の変わらない秀吉陣営の動きに、勝家もついに戦う決心をします。
・勝家の滅亡は、日本の治まりの始まり
(「賤ケ岳の戦い」(wikimedia))
1583年2月末、雪解けのため、加賀の勝家軍が動き出し、賤ケ岳の戦いが始まります。
当時の領土を比べると、秀吉陣営が合計約150万石なのに対し、勝家陣営が合計約130万石と大差はありませんでした。しかし、秀吉の与党勢力が約270万~300万石と、勝家の与党勢力の約50~60万石とは比べものにならないほど大勢の武将たちを自陣営に引き込んでいました。
賤ケ岳の戦いは、秀吉軍4万に対して、勝家軍は2万ほどでした。兵力で優勢な秀吉は、見事な戦術で勝家軍を撃破します。(合戦の詳細は別の記事で紹介します。)
勝家は、賤ケ岳の戦いの残兵と共に、最後は北庄城に戻ると、一族と共に自刃します。
(「北庄城の柴田勝家」(wikimedia))
毛利家の小早川隆景宛の書状で、この勝利について、秀吉は「日本の治まりは、今この時である」と述べています。
その言葉のとおり、その後、秀吉が間違えれば滅亡するような戦いはありませんでした。その意味で、勝家は秀吉にとって最後の決戦相手だったのでしょう。