英仏百年戦争物語9:フランス王ジャン善良王と王太子シャルル

1350年、ジャンがフランス王位を継いで、ヴァロワ朝の2代目ジャン2世として即位します。

このジャン2世は、「ジャン善良王」という別称も持っていました。
そして、騎士道と武勇を好み、騎士の支配する中世ヨーロッパでは、典型的な封建制の君主でした。

(『ジャン2世(ジャン善良王)』(Jean II dFrance)(wikimedia))

しかし、このジャン2世は、少し楽観的過ぎるところがあり、危機感に欠けるところがあるのは、後の歴史が証明しています。

このジャン2世がフランス王位に就いたとき、息子のシャルルも12歳の少年として、次の王位継承者として、控えていました。
ただ、この王太子は、病弱であまり武術を好まず、読書ばかりの日々を送っていました。以前に一度、結核を患った事もあって、仮に体を鍛えたくても、鍛えられないのが本当の理由でした。
そして、本ばかり読んでいたシャルル王太子を人々は「学者殿下」と揶揄していたと言われています。

(『シャルル5世』(Dejuinne – Charles V of France)(wikimedia))

そんなフランス王と王太子親子の運命は、1354年4月に行われた英仏和平会談から少しずつ変化し始めます。

この和平会談で、イングランドのエドワード3世は、自分が継承しているプランタジネット王朝の権利として、プランタジネット朝初代ヘンリー2世が所有した広大な「アンジュー帝国」の領地、アキテーヌ、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を要求します。

※このアンジュー帝国は、12世紀に複数の政略結婚が重なった事によって、その幸運なる継承者、アンリ・ドゥ・プランタジュネに、フランスとイングランドを跨ぐ広大な領地をもたらして、形成されました。そして、このアンリ・ドゥ・プランタジュネがプランタジネット朝の創始者となり、ヘンリー2世と呼ばれています。

しかし、このような要求をフランス王ジャン2世が受ける事などできないのは、一目瞭然でした。交渉は決裂して、両国の動きは再び開戦へと向かい始めます。

1355年9月に、エドワード黒太子は、父である国王の命令を受けて、4500の兵を率いて、300隻の船に乗って、行動を開始します。

まず、フランスのボルドーで同盟軍と合流。冬が始まる前に6500になった兵力でもって「騎行」を開始します。
イギリスの表現では、エドワード黒太子を美化したかったのか、「騎行」と表現していますが、これは、よく調べてみると完全なる「略奪」行為です。後世に騎士道も交えて美化されるエドワード黒太子ですが、このとき彼は、途中のかなり多くの都市で、子供や女性を無差別に殺戮しています。

彼の殺戮と略奪は8週間続き、さすがに耐えかねたフランスの小領主がイングランド軍に反撃を試みるものの、あっけなく失敗してしまいます。

結局、エドワード黒太子は、5つの都市と7つの城を好き放題に荒らしつくして、帰途に着きました。

そして、翌年1356年6月、ランカスター公と合流すべく、再び遠征に出たエドワード黒太子の軍は、いよいよ本腰を入れて軍を召集したフランス軍に押し出されるようにして計画を阻止され、やむを得ず、ポワティエの南に広がる平原モーペルテュイに陣を構えます。

イングランド軍の総司令官は、エドワード黒太子。

フランス軍の総司令官は、フランス王ジャン2世。そして、そのフランス軍の中核には、王太子シャルルが司令官として参加していました。

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